マイク・モニターの使い方


このときはジャズのカルテット… の筈が、結局吹いたのはエマヌエル・バッハ無伴奏1曲だけだったので、ドラム・ベース・ピアノは下がっていただいてノーマイク




 これもよく受ける質問。「フルートに使うマイクは何がいいですか?」


 ステージと録音では、全く選択が違ってきますが、そして録音ではフツーエンジニア任せなので、ここではステージでのことに限ってお話すると、ステージで、一番「ツブしがきく」のは、今のところ定番の、SHURE SM57のようです。その理由は…


 マイクの使い方、という中で、プレイヤー側の責任としてステージでやるべきことのひとつに、マイクとの距離の調節、があります。フルートは高音域のパワーが他の音域に比べて大きく、ラテンでの超高音域などでは、意識してマイクから離れるようにしないと、お客さんの鼓膜破りになってしまいます。エンジニアはフェーダー操作してくれますが、あまり細かい変化には対応しきれません。彼が操作しなければならないのはフルートのフェーダーだけではないからね。逆にジャズで、スローなバラード系などでは、低音域特有の音色を生かしてのソロを吹くことがあります。このようなときは、マイクの近接効果を利用するために、マイクとの距離を極力つめて(ボクは鼻先をかるく57のリング…あのギザギザのヤツ…に当てるようにしています)、息的にはffではなく、幅の広いゆったりした息で吹きます。基音成分の勝ったクリーミィな音になります。


 それらこれらを考えると、マイク側の条件としては、
① マイクが音に色付けしないこと
② 指向特性が適度に鋭いことはもちろんですが、距離に対する感度の変化がリニアなこと➡︎これらはマイクからの距離、角度を変えてヴォリュームを調整するので。
③ ①とも関係しますが、ハウリング・マージンが大きいこと。
が求められます。そのへんを追求すると、現在のところ結局、定番SM57になってしまうようです。


 …余談ですが、57も58も、結構個体差があるのですね。楽器選定のように、マイクを新品状態で選定することって普通はありませんから、何本かあるうちにいいの悪いのバラつきがあったとしても、それが出荷時からのものなのか、使用過程でコンディションに差がついたのか、エンジニアならともかくプレイヤーの立場では判断が難しいですが、先日たまたま、オール新品ではないですが、使用状況・管理ともに悪くない数本を試してみて、あきらかに個体差があることを確認しました。フルートの音のリアルさを決める2k〜3kHzあたりの「抜け」があきらかに違う。EQはなるべくブースト側には使いたくないから、もともとこの帯域の特性がいいにこしたことはないのですね。その中のベスト57に、デカデカと名前を書いてマイマイクにすることにしました…


 マイク距離のコントロールをやりやすくするためにも、マイキング…マイクのポジションは重要です。先ほどお話したような、極端なオンマイクから、超高音域鼓膜破り回避のためのオフポジションを自在に行き来するためには、ブームスタンドを使って、マイクが鼻の高さ(フルートよりやや高い位置)でほぼ水平になるようにセットします。フルートを吹く息は、水平より下向きに出ますから、これだと鼻が当たるところをリミットにする限りマイクを「吹いて」しまうこともなく、フルートがマイクに当たって傷つくこともなく、マイクから「逃げる」ときも距離をつかみやすいわけです。


 逆に、もう少し「おとなしい系」の音楽で、他の楽器とのブレンドを重視する場合には、少しオフ気味(マイクを離す)で、フルートよりも高い位置、ななめ前から、頭部管の歌口よりも少しジョイント寄りを狙うようにします。こうすることによって設定した距離よりもオンマイクになることを防ぎ、さらにオフにしたいときは、マイクにメガホンが付いている状態をイメージして、その範囲から逃げるようにします。


 屋外だったり、あまりないけどジェスロ・タルのようなロックでフルート吹く(トータルでの音圧変化が少なくてマイク距離調節の必要がない)ようなときには、コンタクトマイクも便利ですね。コンタクトだと動き廻れる(踊り廻れる)からね。ボクは最近はクルマの中にいつも、YAMAHA ST5&MC7のセットを積んであります。これは必要最低限のエフェクトも積んでるから、手元でエフェクトタイプ・パラメーター変えられるしね。ただし、ST5のアウトプットはアンバラだから、すこし大掛かりなPAにつなごうとするときは、あらかじめPAさんに相談しておくか、自分でDIを持ち込む必要があります。このセットはあくまでも簡易バージョンですから、SNはあまりよろしくなく、音響さんによってはいやがられるかも。最近ではST5のエフェクトを使うことも減ったので、代わりのコンタクト(あるいは至近距離用)としてゼンハイザーのE608を検討しています。


 いずれにしてもモニターから聴こえる自分の音をよく聴いて、自分で判断できない部分はエンジニアに助言を求めるか、バンドの他のメンバーに聴いてもらいます。






 ご質問は、yocchy6456@hotmail.co.jp まで
































































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フルートとバンスリ・篠笛


 北インドの伝統音楽で使う、「バンスリ」という葦の笛があります。「神の笛」とも呼ばれ、いろいろな音域のものがあって、低音用のものはアルトフルートなみに太くて長く、当然キィワークはありませんから、手の小さいボクは指孔をふさぎきれない。インドの名手、パンディド・ハリプラサド・チュウラシアの手にかかると、この低音バンスリは、この世のものとは思えないような深遠な響きを奏でます。まさに神の世界へといざなうような… と、シロートのように感心しているばかりではなくて、フルーティストとして、わがフルートとの違いを仔細に観察してみると…


 歌口は、うすい素材にアナあけただけの当然として、フルートでいう「チムニー」(ライザー)は、ホールの直径に比してえらく低く、結果レスポンスはえらく早い。反面ダイナミックレンジは狭い。管体の材質が密度の低い材質であることもあって、微細な息にはすぐ反応しますが頭打ちが早い。アナの数は基本、世界の民族系横笛によくある6穴です。ペンタトニック・スケールなら6穴で充分なのですが、過去にイスラム文化や、イギリス統治時代にヨーロッパの影響も受けている北インド伝統音楽のスケールはペンタトニックではありません。導音を多用することや、特徴的なクォータートーン微分音)のことを考えれば多様なフィンガリングの可能性があったほうがいいようにも思いますが、奏法として指穴のハーフオープンや、口でもいわゆるメリ・カリをやりますから、孔を増やして指使いが煩雑になるよりは、音程のアジャストはそっちでやるほうが現実的、というところでしょう。指のほうにはかなり「早弾き」的なフレーズもあるので。ただ、先程「基本6穴」と書きましたが、バンスリには開端近く、こんなとこ指がとどかないダロ、ってところにも音孔があり、(中国の笛子にもある)普段はふさがないのですが、前出のハリプラサド・チュウラシアはえらく手がでかく、この孔を小指で開閉してのプレイが、彼の特徴だそうです。


 材料は、いわゆる葦のような、篠竹のような… えらく薄くて軽くフシもなく、さきほどの低音バンスリだったとしても、その重量はびっくりするほど軽いのです。


 面白いのは、一流のプロが使うようなランクの楽器でも、コルカタの楽器屋にならんでいる新品の時点ではたいした値段じゃないんです。ところが、名手が長年使い込んだものは、目玉が飛び出すような値段が付く。吹かせてもらうと確かに、新品とはまるで違う音がするんです。
 日本の篠笛・能管や、インド楽器でも例えばシタールサロード等と比較すると非常に簡素なつくりで、筒の片端をコルク状のものでふさいで、あとは火箸かなんかで孔あけただけです。実際、指孔の周りはコゲてる。表面の仕上げも、なにもしていない。なにも塗ってないし、オイリングもしていない。それだけに、新品のときはいわば「半完成状態」で、使い込まれていくうちに楽器・発音体として成熟していく部分が大きいのでしょう。
 木のフルート吹くようになって初めて実感しましたが、木や竹の天然素材の場合、水分や油分が音に及ぼす影響って大きいんですね。木管のフルートの場合よく言われるんですが、ケースから出して組み立ててスグ、は「鳴らない」。しばし吹いていて、水の分子が木の繊維組織のなかに入り込んだであろう時点で、おそらく含水率が演奏中の数値になってはじめて本来の鳴りになる。ブラウンが金ライザーを入れるのは、それを嫌ってのことだからだそうな。知人でプラハ交響楽団のピッコロ奏者、そして最近はピッコロ製作者でもあるスタニスラフ・フィンダさんも、木管フルートに関しては、チムニーに金属を入れないと「センシティヴ」すぎて吹きにくい、って言ってた。このヒト自作のピッコロは、「ボアオイル」てレベルなんかでなく「オイル漬け」にして保管するんだけど、それって繊維組織のなかを、水分子が入り込む前にオイルの分子で満たしてしまおう、って作戦なんダロな、と想像しています。でも行き過ぎてフヤけないのかな?


 で、ここからはタブンに想像の世界ですが、「手づかみ」で食事するインドのバヤイ、おててがかなり「オイリー」なわけですね。最初のころ、インドツアーしてて一番困ったのがこれ。モチロン食事の前と後にはちゃんと手を洗ってますし、インド製ニベア石鹸の洗浄力を信用してないから、ニッポン製牛乳石鹸も持参しているのですが、それでも毎回手づかみでカレー喰ってると、やっぱりおてては「スベスベ」になってきて、メシ喰ったあとで金属のフルートだと持っててすべるのなんの。特にゴールドってスベるよね。バンスリでは管の素材から言ってそういうことはないわけね。やっぱり文化はすべてが絡み合って成立してる…


 …というのは冗談としても、使い込んでいく過程でゼッタイ「オイリング」されてる。内側も外側も。木管のフルートやトラヴェルソ、リコーダーでもオイリングは音に影響する重要な要素だし。連中そういう風には考えてはいないだろうけど、もし日本でもっぱら和食のニホンジンが使い込んだとしたらインドとは音違うダロなぁー。 


 対して日本の篠笛・能管ですが、仕上げに「漆」を塗ります。塗膜がかなり厚くなるまで、内側は棒の先に付けたタンポを使って、管の内面を覗きこみがら、繰り返し塗るそうです。結果、笛師は長年やってると目を悪くするのだとか…
 能管の場合はさらに、高級なものは「割竹」という製法もとることがあり、これは竹をわざわざ一度縦割りにして、それを裏返しにしたうえで一本にまとめる、という製法です。その上にやはり漆を塗って「固め」ます。やはり文化、楽器はそれぞれの地に根ざしているなあと思うのは、漆は水分によって固化するという点です。合成樹脂を含めても最強の樹脂と言われる漆ですが、多湿な気候の日本にピッタリな素材でもあるわけですね。




 繊維の上に樹脂を塗って固める、というのは、現代のFRPと同じわけで、先人の知恵を感じる部分でもありますし、現代フィンランドのフルート製作者、マティットの「カーボンファイバーフルート」とも、いわば管体は同じような組成と言えるわけで、オモシロイですね。硬化した漆の内壁が生み出す「透る音」が、日本人の感性が求めた音だったわけですね。そしてそれは、見かけは同じ6穴の横笛でも、バンスリとは、求める世界観がかなり異なっていた結果なわけです。









































































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スタジオミュージシャンのおシゴト

 一般の方から想像しにくい世界っていろいろあるけど、「スタジオミュージシャン」もそのうちのひとつじゃないかな?この20年、ご他聞に漏れず、このギョーカイもずいぶんと構造改革(?)があって、いわゆる「フリーのスタジオミュージシャン」は、ずいぶん居場所を失った。以前は「インペク屋さん」と呼ばれる、ミュージシャンをブッキングする事務所からおシゴトを依頼されることがほとんどだったけど、生録音の総量の減少と、従来の形態にはそぐわないスタイルが増えたことで、アレンジャーが懇意にしているプレイヤーに直接発注することが多くなったんだよね。予算減少のせいもあるけど。

 実際の録音現場に至るまではですねえ、インペク屋またはアレンジャーから、「○月○日の何時、空いてる?」というデンワを受けるところから始まる。そこで「すみませんその日はNGです」だと、「あ、そう。じゃまたよろしくね」となってしまうのがフリーランスの悲しいところ。要するにダレでもいいんだよね。(もちろん実績があるなかからのセレクトではありますが)諸センパイ方見てても、トシいくにつれ「指名入札」のカタチで仕事したいと思うようになる。自らのアイデンティティの確認のためにも。まあ「職人芸的」な世界だともいえるのですが…

 指定された○月○日、○○○スタジオ○○STには、遅くても30分まえには着くように出かけます。仕事始めた当初、センパイ方から一番にうるさく言われたのがこれ。「スタジオミュージシャンは時間厳守」 ニホンは録音ギョーカイもハイテク=高コストだから、スタジオ使用料は時間あたり、大きいところだと何10万円にもなるわけ。時間内終了は絶対命題なのです。
 スタジオのメインルームの入り口には、その日の録音の配置図が掲示されてる。それを確認して、「FLUTE」と書かれているブースに入り、楽器のケースを開ける。編成がデカくてブースが足りなかったりすると、フルートってそんなに音でかくないから、メインルームへ通じる二重扉のあいだに入れられちゃったりする。建替えるまえの昔のキ○グレコードのスタジオなんて狭くて、「ここも使うんかい!」みたいなところまでブ−スとして使ってたから、本番中にそば屋の出前持ちが扉開けちゃったことがあったっけ… 木管のフルートを使うようになってから、それまでよりも早めにスタジオ入りするようになった。木管の楽器はその場の気温・湿度に慣らして、しばし吹きこまないと鳴ってこないんだ。とくにボクのはおじいちゃんだから、寝起き悪いからね。ニンゲンの年寄りとは違って。

 そのころ到着する譜面をチェックしつつ、ウォームアップしてると、アシスタントがマイク位置を合わせにくる。そういえば最近はマイクの感度がよくなったのか、以前ほどオンマイク(マイクが近い)ではなくなったから、キィノイズとか、ブレスノイズにさほど神経質にならなくてもよくなったなぁ。昔は少しでもキィノイズがするようになったら楽器屋さんで調整してもらわなければならなかったから、しょっちゅう通う必要がありました。そのせいで、ボクのガタガタヘインズとかは使いづらく、録音にはキィワークの出来がいい○○マツDNを持っていくことが多かったですね。

 で、時間になると、ディレクターの「おはようございます。それでは一度お願いします」の声がイヤホンから流れて、ドンカマが鳴り出したら間発入れず、ドラムのプレイヤーがカウントを始める。たまに生徒とかを見学に連れてくと、みんなオドロクのはこの進行の早さ。このペースについていけないとスタジオミュージシャンは務まらない。長年やってるとみんな、性格まで短気になってくる。常に時間に追われてるから、当然早メシ早○○芸のうち。カラダによくないですねー。指揮台の上では、たいていアレンジャーが指揮します。ブースから直接見通せない場合はモニターがありますが、あんまりマジメに見ててはいけません(?)。でも最後の音の切りは指揮見てないと。コンマスの弓見てないと合わないことも多いけど。
 一度演奏した後は、アレンジャーはコントロール・ルームに戻って、ディレクターやプロデューサー、立ち会ってる歌手本人と最終確認。この段階ではもう大変更はないけど、テンポが多少変わったり、アーテュキレイションやオクターブの変更はある。だいたいポピュラー奏法では、アーテュキレイションはプレイヤーの責任だから、音楽のスタイルによってのあるべきアーテュキレイションを知っていることが必要だし、イヤホン越しに聴こえる他の楽器とのアンサンブルを聴いて、自分で決めなければならないこともしょっちゅうある。音程にしても弦のヒトは音楽的音程にうるさいからね。よく聴き合わせないとニラまれますから。おーこわ。
 この後はテスト録音→本番。テストは必ずプレイバックされるから、ブースから出て、メインルームのラージモニターで、バランスや音程感を確認します。マイクを通した音は生とは微妙に違って聴こえるし、アンサンブル上、倍音の都合で音程感が違って聴こえることもあるから。
 それらを修正のうえ、もう一度、本番の演奏をして、事故がなければその曲は終了。都合三回しかその譜面を吹いてない。だから次の日になったら、曲名まですっかり忘れてる。なので街中のどこぞからBGMで流れてくるのを、「ノリ悪いフルートだなぁーだれだべ」なんて思ってると、その数秒後に「オレじゃん」てなることもある(-_-メ)


 この後に、ミックスダウンを経て、歌手が歌を「カブせ」るわけですが、演歌だとオケ録りの段階でもう各楽器のバランス取っちゃってるから、スグにウタ録りになることもよくあります。いつかさ、オケ録り終わって楽器片付けてたら、ヨボヨボのおばあちゃんが入ってきて、「ちょっと発声練習いたします…うぉーあーぅおえーーーー○×△〆」って、ニワトリが絞め殺されるような声で歌いだした。ボクはびっくりして、そばにいたインペクの爺さんに「だれ?あの婆さん?」と訊いたら、「おまえ二葉百合子大先生を知らんのかぁ!!!」と、えらいケンマクで怒られた。だって若いんだもーん。

   
























































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蓄音機

 10年まえくらいかなぁ?京都の法念院へ清水きよしさんとのジョイントコンサートで行った折、近くの喫茶店で生まれて始めて蓄音機の音を聴きました。クレデンザかグラモフォンだったか、いずれにしても大型のフロアタイプで、ルックスもアンティーク家具のような堂々としたものです。これが作られた時代…1920年ころかなぁ…では、「家庭で」これを楽しむことが出来たのはアメリカの大金持ちだけだったのですから当然ではあります。で、その音は…

「○×△♪★◎#?Ωξ!!!!」

 びっくりしたぁのヒトコトですね。うえのハタチのころにはオーディオに凝りまして、スピーカ自作はモチロン、FETアンプに当時発売されたばかりのDATを駆使して「原音再生」目指したもんです。それらが目指していた方向とはゼンゼン違うんです。



 形容としては使い古された言い方ですが、ヴォーカルは目前で歌っているよう、チェロは松ヤニが飛び散っているようです。でもそれって決して「原音再生」じゃないんだな。



 勿論、「再生」には違いないし、当時のエンジニアだって当時のテクノロジーを駆使して「原音再生」に近づこうと苦労したのだろうけど、現代人の感覚で聴くと、蓄音機てのは再生機器ではなくて、「楽器」に聴こえるんだな。
 電気なし。ターンテーブルを廻す動力はゴツいゼンマイです。針で拾った振動も、あいだに一切、電気が介在することなく、ホーンでの増幅のみで豊かな音になります。初期の録音では、盤面への記録すら電気カッティングではなく、再生の真逆にラッパで拾った音のダイレクト・カッティングですから、録音〜再生の間、一切電気のお世話になっていない(まぁまだ電気がなかったのですから当然ですが)。停電したらすべてがアウトの現代テクノロジーに比べ、なんとスガスガしいこと!

 「テクノロジー」の目的のひとつが、「多くのヒトが恩恵を享受できること」であるとすれば、現代の音楽に纏わるテクノロジーは、たしかに「間違って」はいないでしょう。CDラジカセが普及したおかげで、ウチのバァさんさえ、自分で気軽にナツメロを楽しめるようになった。ムカシは気軽も手軽もなかった。ボクの少年時代でも、アンプにあらかじめ火をいれて暖めLPレコードを傷つけないように注意してジャケットから取り出しターンテーブルに置いたらクリーナーかけて針もクリーニングしてトーンアームをそっと下ろして…… あー思い出すだけでメンドくさ。こんなことバァさんはようやらん。




 でもね、インド見てるといつも思い出す、「得るモノの裏に失うモノあり」の原則。けっきょくどっちをとるかなんだけど、仕事で聴く資料としての音はWABやMP-3ですが、自分の好みで聴く音としては絶対に「遺産系」だわね。やはり現代のテクノロジーは、便利さの陰で失ったものが大きすぎ。要するにバーチャルのテクノロジーなんだよね。いまやジャンボジェットの操縦訓練も、軍事作戦の検討もシュミレーターでやるそうですが、これは「おシゴト用・先手必勝・効率最優先・コスト削減」系の価値観から来るわけ。音楽においても、ステレオに始まった「音場再生」。バーチャル音像ですね。もともとが「コンサートホールの雰囲気をご家庭で」ってバーチャル空間の創造が目的だからね。蓄音機が「楽器的」に聴こえる最大の理由のひとつは「モノラル」であることじゃないのかなぁ?音源がないところから音が聴こえたらまさにバーチャル、それってオカシいよ。王さまははだかだぁー。




 バーチャルとなんちゃってだらけの現代。その原因のひとつは、今の20代の親の世代が金儲けにばかりに忙しく、子供に「ホンモノ」を理解する価値観を教えなかったことによると思う。現代ニッポンの基礎をつくってくれた世代ですが、弊害のひとつですね。このまえ烏山に新しく出来た、若い店主の九州ラーメン食ってみたら、ろくにトンコツのスープもとらずに(下手すると業務用粉末スープ)とろみ材タップリの味で、本当にちゃぶ台ひっくり返したろかと思った。まぁそこにちゃぶ台は無かったのがヤツの幸い。トンコツのラーメン屋は店中ブタ臭くてあたりまえ。それがイヤならトンコツラーメンやるな。ブタ臭いのがダメな客はトンコツ喰うな。命捧げてくれたブタに失礼だろうが。
 以前にも「将来はパティシエになりたい」と言うネェちゃんが、「このまえーシモキタでたべたースコーンがしっとりしててとてもおいしくてーワタシも将来ああいうスコーンつくりたいんですぅー」と言うから、オジさんは思わず、「あのねスコーンてのはモサモサしててあたりまえなの。それをミルクティーと一緒に食べるから美味しいあわせワザなの。しっとりがよければ他のモンつくりなさいっ!!!」あー説教ジジイみたいでやだ。音楽でも、たとえばさ数年前にどこぞのアホが仕掛けた「おしゃれなジャズ」。当然のこととしてとっくに過去のコトとなりましたが、それにまぁこれもノセられるほうがアホだが、おかげでロクにアドリブも出来ないエセねーちゃん自称ジャズフルートが増えて、メイワクなんだよ。どうせほとんどの客はパンツかヘソが見えればそれでいいんだからさ。




 失礼。思わずエキサイトしてしまいました。喰いモンに戻るけど、そら忙しい現代人のこと、どうしても時間がなくてとりあえず腹くちくなれば、のファストフードも仕方ないときもあるが、自分で選んで好きなモン食べたいとき、バーチャルはいらんわな。




 いまの時代、あえてこれをやろうというのは大いなる「ムダ」であり、同時に精神的ゼイタクです。こんど柏桜荘で蓄音機コンサートやろう思うんだ。世の中ヘソまがりもそこそこいるので、神保町あたりには「蓄音機屋さん」もあります。ここに頼んで、ボクが以前感動したような大型フロア蓄音機を運んできてもらい、往年のヴィルトーソの名演奏・大正叙情歌昭和歌謡浪曲民謡・スイングジャズ全盛期なんかをオリジナル盤で、っていう企画です。




 まずは自分で把握しとかにゃ、と、卓上型の蓄音機… それでも50cm四方くらいあるのだけど… のを某オークションで見つけて買った。ワクワクしながら針を下ろしてみると…





 10年前の京都の喫茶店の店内の風景が甦った。そして、そのときの思いも脳裏をかすめた。





       「進歩すべてが是ならず」



















































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過去の投稿3

🎵 ナゾの楽器 🎵 2023/07/27

 今までかなり楽器をとっかえひっかえしてきました。一種の「青い鳥症候群」です。どこかに自分にとってもっと理想的な楽器があるだろう、って。疑い深いへそまがりなんで、「これは銘器なんだから楽器には問題なし、あとは練習あるのみ」に納得できなかったからなのですね(笑)。

 「青い鳥探し」に終止符を打たせてくれた最大の功労者はムラマツ製の旧い波型歌口なんですが、そのポイントはボクの「下唇ジャマ」「上がらない口端」「赤筋(疲労しやすい筋肉)」に対応してくれるところ。もうひとつ「歯列に対して低く位置する唇」(笑顔のときに歯が見えにくい)も加わるかも。日本人の場合モンゴロイド的厚めの下唇をお持ちの方は少なくないと思うんですが、ほかの2(3?)条件が重ならなければ他の解決方法があると思う。でもボク自身の身体的特徴であるこれらの要素を、自身の身体の個性であると認識するところから始めるならば、現代の一般的な形状であるストレート歌口に自分のアンブシュアを「あーでもないこーでもない」して合わせるより、凹んだ波型プレートでの下唇の使い方を追求するほうがよっぽど明るい未来がある、と結論しました。ラファンなどにあるアドラーやドイツ系の波型、いっときムラマツ・サンキョウにあったハイウエーブとは目的が違います。

 この「旧ムラマツ波型」はドイツの楽器によくある波型とはプロポーションが異なり、リッププレート手前(唇に当たる側)が凹んでいるのとともに、チムニーの壁も手前側は低くなっています。

 ヘタクソな絵で済みません。断面図的にはこんな感じです。単純に、向こう側へ外転させれば高さ揃うんじゃね?と思えますが、それではチムニーの壁の傾きがおかしなことになるので、どうもこのように捉えるのが正解のようです。

 現代の標準、ストレートのリッププレートに比べてどう違うのか。最初は戸惑いますが、あーでもないこーでもないとやって慣れてくると、ボクにとっては下唇の自由度が高いことに気がつきます。より緩いアンブシュアで吹くことが出来るのですね。ただし、いわゆる「ロックストロ・ポジション」的な持ち方とセットです。今だからこそ白状しますが(笑)、初めてフルートを手にしたときから「下唇がジャマ」でした。左手首の「起こし」を多めにとって唇へのプレスを少なめにすることで、波型プレートの凹みへ下唇を潰さないまま収めることが出来ます。
 この位置関係と、結果出来上がる下唇の形状で、音色変化のため、あるいは跳躍のために口端を締めたときの息ビームが、口周りの他の部分であれこれバイアスをかけなくてもエッジに向かってくれます。
 あと「疲れやすいアンブシュア対策」ですが、前述の要素から、口周り全体を波型歌口に合わせてセットアップすると、バイアス(トリム?)値を設定する必要が減るので基準をより緩めに設定出来て、疲労を招く要因を減らせるわけですね。「短時間的には強力だけど持久力に乏しい」赤筋は「チカラ入れっぱなしにしない」が使い方のコツで、折々に緩めないとイントネーションが悪くなったり、ダイナミクスコントロールがやりにくくなったり、コンディションの維持が難しかったり。実際いっときマイルドに顎関節症になっちまったし。練習を重ねて無意識領域データに落とし込むとしても、操作の総量が多いことはたしかで、これらの操作が少ないほうが「音楽に集中できる」ことは確かよね。

 これも今だから白状しますが(笑笑)、頭部管何本もオシャカにしました。良い子は真似してはいけない悪い子のイタズラです。頭部管を削る… フツー向こう側エッジとか、ショルダーやチムニーのスソだと思うんですが、ボクの場合下唇がいいカンジに収まることを夢見てプレートの手前側を削るわけです。思い出すのは音大受験前にいっときだけお世話になった木下芳丸先生のこと。先生、やっぱり波型のリッププレートの手前側をさらに削って、削りすぎて穴があき、エポキシ接着剤で埋めてた(笑)。ボクは木下門下じゃないし、門下の先輩方はそのへんの事情を詳しくご存知だと思いますが、今にして思えば、木下先生もリッププレートと下唇の一体感を追求していらしたんじゃないかと思えます。木下先生あんまりタラコ下唇じゃなかったし、口角も下がってなかったんですが。

 「はじめに波型歌口ありき」でスタートすると、オリジナルのmodel72ボディではチト役不足なので、こんどはさまざまなボディとの組み合わせを試しました。頭部管のほうはレスポンス・響き・コントロール性などの要素から、銀製よりも洋銀製が良い、との結論になりましたから、この波型リッププレート洋銀製頭部管と相性の良いボディ探しです。

 基本、手持ちの楽器の中から、ですから「ありとあらゆる」は無理です。でもまぁやってるうちに「お!?」てのが見つかるもんです。で、その結果… 1950年くらいのBettoney-CADETなんですが、いろいろとナゾです。
 
 洋銀… フランスのマイショーのように、現代の洋銀とはチト成分が異なるのかもしれませんがとにかく銅・ニッケル合金、銀メッキ。「CADET」のネーミングの通り、ベトニーフルートのなかではステューデントモデルの位置付けのようなんですが、トーンホールはソルダードです。楽器自体の作りは決して良くはなく、カップの水平度が揃ってなかったり、ポストも傾いてたり。ポストのほうは製造クオリティではなくて過去のユーザーがブツけた可能性もありますが、この楽器、メナートの金属管のようにポストリブなしでポストが管体に直付けされているので、ポストをブツけて傾かせれば管に痕跡が残るはず。そのようなところはないので元々傾いて立ってたんですんね(笑)。キィスプリングはホワイトゴールドで、キィタッチは上々です。
 1950年頃と言えばヘインズが開発したと言われるドローントーンホールの技術はとっくに普及していただろうし、ローコストに作るならドローンじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうか?(特許とかが絡んでたのかな?)後で手に入れた「CADET」ではない兄貴分の「Bettoney」はドローントーンホール、カーリングなしでした。この「逆転現象」がナゾです。同年代のフランス製にも洋銀管ソルダードはありますが、ステューデントモデルじゃないし。キィスプリング含めなんかミョーなところにコストをかけてる気がします。

 トーンホールの位置、というか管体の設計がナゾです。オリジナルの状態ではたしかに442Hzはキツいんですが、全体のプロポーションをよく観察すると頭部管がほかの楽器よりもあきらかに長く、そのぶん胴部管・足部管が短いのです。胴部管以下は442設計の楽器のプロポーションとほぼ同じなのです。やはり440設計であろうムラマツ波型頭部管を挿すと胴体が短いのでちゃんと(チューニングできるマージンを残して)442が出て、イントネーションも、いっときのヘインズ、ムラマツのような右手部分ダラ下がりのようなクセもありません。前述の兄貴分ベトニーは全長が長く、あきらかに全体が440設計のようなんですが、ほぼ同時代制作に見えるウチのCADETはなぜ胴体が短い?以前吹いていた1912年制作の木管ヘインズは「ヨーロッパ輸出用のハイピッチオールドヘインズ」てことだったんですが、それよりもフツーに442です。

  これはまぁナゾではないかもですが、トーンホールの内径が小さいです。安物のノギスでの測定ですが、Eホール(胴部管下端)で直径13.5mm。最近の楽器だとここは15mmくらいです。たしかテオバルト・ベームのオリジナル設計の寸法がこのくらいとどこかに書いてあった気が… 1912ヘインズ木管のトーンホールもこのくらいの直径でした。


 足部管のC-C#キィの連結もベームの本で見た通りの形状です。ここも1912ヘインズも同じ形状でしたが、たしかこの時代(1950頃)にはもう現在よく見るスタイルに刷新されていたと思います。材質が異なるとは言えこの二本に共通しているのは特に中音域で少し詰まり気味の音質。肯定的にとらえると「甘い音」。このトーンホールサイズから来ているのでは?と睨んでいるのですが。これ以降の楽器はもっと明確な音質、音量の拡大を目指してトーンホールが大きくなっていったんじゃないか、と。

 70年前のボストン、どのような工場で、どのような職人がこのナゾてんこ盛りのフルートを作ったのか、を想像するだけで楽しめます。

 他の楽器とは相当異なるコントロール特性を面白がって吹いているところです。特定の音型のときに響きが揃わない音があったりして替え指必須。それやってて気がついたんですが、先日もMCで「ボクは昔から暗譜が苦手で…」てお話しをしたんですが、暗譜って、単に「楽譜」を覚えているんじゃなくて、それを吹く身体のコントロールもリンクして記憶しているんですね。だから学生時代とかにカリカリさらってそのへんまで記憶されている曲やエチュードなんかはデータを修正する、さらい直す必要がある。こりゃなかなか面白い「自分自身の内面への旅」あるいは「タイムマシン感覚」です。もともと楽器のレスポンス遅れを算入してコントロールする「楽器の演奏」は音響環境が変わるたび、楽器が変わるたびにこの「パラレル時間軸感覚」を日常的に楽しんでるとも思いますが。

 決して扱いやすくはなく、普通のストレート歌口が吹けなくなるんじゃないか?て恐怖感もあり(笑)、仮に同じように「タラコ下唇」に悩んでいるお弟子さんとかがいてもチト勧められないと思いますが… 自分自身は… まぁ自他ともに認めるへそまがりですから。

 それにしても他人からすれば「なんでそうする?」かも。本人的には、還暦も過ぎていろいろな憑き物が落ちてみると、高校生のとき「あの楽器が吹きたい」と決心して初めてフルートを手にしたときに「出したい」と思った音、これはコトバや文章では表現出来ないけど、結局そこなんだと。その音ってその後に知った「名人名演奏」や「超絶技巧曲」的なフルートの世界じゃなかったんだと、今になって改めて思う次第です。

 


 トリルキィの位置高いですよね?この楽器。慣れるまでは意図せずに中指が触ってしまってなんだかな、でしたが、響きを揃えるためにこのトリルキィに限らず替え指を使わなければならない場面が多いので、これは合理性を狙った設計なのかな?とも思います。この時代は現代の楽器よりも替え指がフツーだったんでしょうか?それとも頭部管を変えてデフォルトのバランスを崩したせいなんでしょうか?

 

 

<i>🎵 「KAMEN」の音楽 2022/08/22</i>


 パントマイミスト、清水きよしさんの作品のひとつ、「KAMEN」。能面を製作する技法で創られた面を用いて演じられる作品です。

 40年前に初演されてから再演をかさね、最近では年1回の東京公演のほか、地方公演、また世界各地で公演してきました。

 僕はおそらく(すみませんちゃんと記録していないので…)35年ほど前から毎回、舞台上での演奏者としてお付き合いさせていただいています。曲のほうは、1曲だけグレン・ミラー「茶色の小瓶」のテーマを借用していますが、他はオリジナルの曲… といっても即興の割合が多いので毎回違うんですが… で構成しています。あえて最小のギミックという制約を自ら課して表現するパントマイムの「劇伴」ですから、音が鳴る場面は少なめです。


 これだけの長きに亘って、それも「定期公演」的なペースで同じ作品に関わることはめずらしく、毎回新しいチャレンジを加えてきました。同時に、これも回数を重ねるからこそ出来ることでもありますが、「断捨離」も進んできました。

 これは僕のライフワークでもあるのですが、単音楽器であるフルートで、和声が重要な構成要素である西洋音楽に「ひとりで」どう対峙するか。ピアノやアコーディオンなどの鍵盤の楽器、ギター、ハープならば「ひとりで」和音出せますが、フルートはムリ。かたや東洋の笛は「虚無僧尺八」や「青葉の笛」のように「ふし」だけで成立しますが、長く違う道を歩んできた西洋と東洋の笛は、安易に互いを真似ると「ただのなんちゃって」になってしまいます。

 こだわりたいのは「全編無伴奏」ではなくて「ひとりでできるもん」なので、「KAMEN」の再演を重ねるなかでさまざまな試みをさせていただきました。「重音奏法」や「ボイスミックス奏法」はギミック感マンマンで合いません。そこでシーケンスを併用することにして、今はやりのルーパーエフェクトのようなものから、シーケンサーをダブル、音源モジュールもラック山積み、みたいなのも。

 でもね、「ソロパントマイム」のシンプルな舞台からすると、大掛かりになればなるほど「浮いて」しまう。最初の10年くらいは「膨らませる」時期だったのですが、それからは「断捨離」「シュリンク」の方向性に入りました(笑)。


 この10年くらいは、画像のようにあらかじめ録音したシーケンスを併用する、という範囲に落ち着きました。シーケンスのほうも「バッキング」のレベルまではいかないシンプルなものにとどめておいて、上に乗っけるインプロヴァイズの自由度を上げよう、という方向です。シーケンス再生のほうはMDからPCMレコーダー、CD、ノーパソと進化してきました。新しいもの必ずしも最良ではなく、舞台上での操作性を考えると一長一短なのですが、さすがにイマドキMDとかではメディアが手に入らないし、機材のほうもいつアウトになるか解らない。PCMレコーダーは操作性イマイチです…

 

 35年前って、僕が桐朋中退して、音楽家として生きる道を模索していたころなんですが、そこまでの人生(おおげさですが)を振り返って、自身の「やっぱり単独行動が好き」を理解しはじめたそのころの1988年埼玉博、事務所にブッキングされたアトラクションの仕事で出会ったパントマイミスト清水さんのスタイルは衝撃的でした。「ひとりで、ギミックに依存せずにこれだけの表現が出来るのか」と。もちろんそのためにはその人の人間性や芸術性、不断のトレーニングが重要なわけですが。

 具体的なところで、僕自身の「音楽性」「音質(フルートの)」を考える部分にまで影響しています。

 「KAMEN」中の作品のひとつ、「駝鳥」の冒頭で鳴らす音です。(下はインスパイアされているドビュッシーのシリンクスです)「駝鳥」でフィックスなのはこれだけ。とうてい曲とは言えない「動機」だけで、あとは全部アドリブ。

 「駝鳥」は高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」からインスパイアされた作品で、動物園の檻の中の駝鳥が、ふと生まれ故郷の草原での気配を感じ、そこから故郷のイメージのなかへ帰っていく、という部分なのですが…

 音がその先の展開を導く、という、音楽家冥利に尽きる場面です。台本では彼がアフリカの草原で感じていた「風と匂い」なのですが、それを音で表現するわけですね。なので、ここでは「笛の音」にはこだわっていません。かと言って風の音や動物たち鳥たちの声の模倣でもなく、アフリカの草原のイメージをシンプルに、なおかつ観客のイメージに先入観を与えない抽象的な音で表現したいのです。「明るく」でも「暗く」でもなく。

 譜面にしてしまうとたったこれだけなのですが、「遠くから聴こえてくる音」「記憶のなかで聴こえる音」(台本では「瑠璃色の風」)をどう吹くか。映像ではよく、過去のシーンを表現するのにモノクロ調や、セピアトーンを使いますが、「音」のほうも、遠方から聞こえる音は強弱だけではなく、周波数特性が近くで鳴っている音とは違います。人間はそのへんを経験に基づいて、「音の大小」だけではない情報で「音の遠近・方向」を判断していると思います。逆に救急車のサイレンが、距離感・方向感解りにくいのは、遠達性のためにわざとそういう音にしているからなのですね。

 てことは、救急車の逆をやればいいわけで、ただ「小さい音」だけではなく、音色(倍音特性)のコントロール、ということになります。えーいめんどくさ、ベルリオーズ幻想交響曲」その他のバンダに倣って… とは言ってもそこだけ退場してソデで吹くわけにもいかず、ステージ裏にこの場面専用のスピーカー仕込むか?とも思いますが、「ギミック排除」の方向性が根底にあるパントマイムのステージですから、吹き方でなんとかしましょう。

 

 で、この「駝鳥」冒頭、もっと自分自身のイメージに近づける奏法、を長年に亘って追求することになりました。ある年は、本番の数日前に楽器屋さんの試奏室に一日籠って、頭部管をあれでもない、これでもないと探しまくっていたこともありました(笑)。

 

 「KAMEN」をまだご覧になったことがない方に是非観ていただきたいのと共に、「駝鳥」にどうオトシマエつけたのかを聴きにきてください。もちろんリピートの方も。お待ちしています。

 

清水きよし「KAMEN」
2022年10月28日(金)19:00開演(開場18:30)
座・高円寺2(JR高円寺駅下車・徒歩7分
一般¥4000/18歳以下¥3000

ご予約はカンフェティ予約サイト 0120-240-540(10:00~18:00)
https://www.confetti-web.com/kamen

 

 

 

<i>🎵 固定観念 2023/01/22</i>


階段が鍵盤でなにが悪い?(音は鳴りませんでした)

 ニンゲンともすると固定観念から抜けられない生き物だと思っています。心理的に「囚われやすい」シニアはその傾向強いかも、と。特殊詐欺ってのはこのへんの心理状態をうまく利用してるんだと思いますが・・・


 先週、「ユモレスク」に四苦八苦する生徒さん(シニア)がいたのですね。あれ、Aメロは「ソ、ラソ、ラシ、レミ、レ」って弾くべき(吹くべき)なんですが、どうしても「ソーラ、ソーラ、シーレ、ミーレ」になってしまう。三浦 環のイメージですかね?(たぶん三浦 環聴いたことないと思うんだけど…)

 ボク、「習うより慣れろ」「音符より耳から」をモットーにしているんで、必ず「こういうふうに弾くんですよ」てお手本見せる(聴かせる)ようにするんですが、それでもダメ。本人は「どこが違うのかわからなーい」状態で、ははぁこりゃ聴いてる段階で「ソーラ、ソーラ、シーレ、ミーレ」って脳内変換して聴いてるな、と。そうは弾いてないんだけど。これすなわち固定観念。そう確信したのは、この生徒さん「左手のレ、レ↑レ、↓レソのとこ、弾いてみて」と言っても「どこだかわかりません」。フレーズは小節線のところから始まるもの、と思い込んじゃってるから、1柏めウラウラからのフレーズが認識できないわけですね。


 よく「王様はハダカだ!」って見える目(聴こえる耳)を持とう、て言ってます(笑)。固定観念山盛りのオトナは「王様がハダカで通りを歩くわけがない」と思うわけですが、同じように「楽譜通り(じゃないんだけど…)弾いたし」から抜けられないと自分が弾いた音がちゃんとは聴けないわけですね。その状態だと楽譜も固定観念のひとつになってしまいます…

 現代の五線を使う楽譜って11世紀くらいから(最初は四線だったらしい)みたいだけど、その後の産業革命と同じく、(ヨーロッパの価値観を伝播させるために)さまざまな恩恵をもたらしてくれたと同時に、「便利なモノにはワナがある」の側面も持ち合わせていると思う。音情報の伝達はリアルタイムにそのものを聴いて、多少の口伝で補う、しか出来なかったものが、視覚情報として保存出来るようになったのだから。
でもそれは耳への意識がいくばくか削がれることでもあるよね。

 

 

 

 

<span style="font-size: 150%">🏍原付1種</span>

 先日、あるひと(バイク乗らない)に「昔のヘルメットはベンチレーションなんぞ付いていなくて、アタマ蒸れたんですよ」と話していて、「そうだ俺って30年近くのブランクがあったリターンライダーだったんだ」と思い出しました(笑)。

 ヘルメットのベンチレーションだけではなく、30年も経てばバイクそのもの、周辺器材もいろいろ変わりますよね。でも変わってないことの一つは「原付(一種)30km制限」。
 50ccに関しては変わったこともあります。例えば「二段階右折」。でもこれは50ccの「グレーゾーン」を増大させることになったと思っています。

 10代のころは原付免許しか持っていませんでした。当時の神奈川県は「3ない運動」真っ最中で、大多数の高校生がバイクに乗るには選択肢は50ccしかなかった、と思います。ホントのところは50の原付だって「3ない運動」の対象のうちなんだけど。メーカーのほうもその需要を当て込んで、70年代、各社5速ギヤボックスのスポーツモデルをラインナップしていました。友人も、あいつはRD50、こいつはRG50、ボクはCB50JX-1。軒並み6ps以上のエンジンで、最高速は90km近く出るシロモノです。でもねこれらのバイクで30km/hをキープする忍耐力、高校生は持ってないです。ヤバンな昭和、今は当然原付走行不可になっている横浜新道は、なぜか全線50cc通行可、だったんですね。おこづかい乏しい高校生、電車賃より原付のガソリン代のほうが安くつくんで、CB50でよく藤沢から銀座のヤマハに行ったもんです。

 でもね、横浜新道って当時クルマの制限速度はたしか70km、いくらバイパス然としたつくりで全線片側2車線と言っても、70km、あるいはそれ以上の速度でクルマがバンバン走る横を30kmで走れるもんじゃないです。「走っていいからって言っても、ただその道走らない選択をすればいいだけ」って言われてしまえばまぁその通りなんですが…

 それらが不満ならば他の選択すればいいわけで、リターンした時は普通二輪免許取ってのリターンだったから、50ccを選ぶ理由はなかったんですね。小さいバイクに乗りたくてCD50を持ってたときも、110ccのエンジンに載せ替えて登録変更してたし。今リトルカブがあるのは(クルマの)普通免許しか持たないヨメのバイクだからで、カブ、とてもいいですが自分のバイクとして乗るなら中古の70、90なり今の110、125に乗ればモロモロの面倒はない。でも50ccしか存在しないリトルカブのデザイン、秀逸ですね。

 これも「30年で世の中変わった」ことのひとつだと思うんですが、ヤバンな昭和(笑)とは違って、ほとんどが40km制限の市街地、昔のようにかっ飛ばすクルマはほとんどいなくなりましたね。地方では違うのかも知れませんが。地方の公共交通の便が悪いところで50ccが高校生の重要な通学手段のところ、ってたぶんまだありますよね?禁止しているところもあるみたいですが… でも最近は電動アシスト自転車の進歩がすごい。普通のチャリだとキツいのは長距離と山間部の登り坂だと思うんですが、電アシなら… 

 同じく都市以外で公共交通が期待できない北欧での50ccバイクは45km制限のようです。まぁ免許取得のための試験内容や安全教育とも絡みますが。

 日本での現状ならば、単純に50ccの制限速度を40kmに引き上げれば、もしかしたら二段階右折も見直しが出来て、グレーゾーンのひとつが減るんじゃないかなぁ…

 

 50乗ってると、いまだになんかスッキリしないものをずっと感じて走っています。書いててもスッキリしてないのが「…」の多さに表れる。

 

 


<span style="font-size: 150%">🏍原付2種</span>

 125、いいですね。いまだに社会のはみ出し者的扱いを受ける(ヒガミ根性ですかね?)中型以上のバイクに比べ、公共の駐輪場などでも「125まで」のところはけっこう多く、とは言えウチのは車格は250と同じなんで、50~125のスクーターを想定のスペースじゃデカすぎて近隣に迷惑ですから、中型以上のスペースがあればそちらに停めるようにしてるんですが。

 よく言われるランニングコスト的なこと… 燃費とか、任意保険にファミリーバイク特約を使えるとか、おカネにからむ部分もありますが、なにより性能的な部分が「必要充分」。加速力とか小回りとかですね。加速力は市街地で重要な要素と思います。バイクは乗用車より加速が良くないとキケンです。四輪から素早く離れられないとキケンです。べつに嫌っているわけではなくて(キライですが)、生き方が違う者同士は関わらないのがお互いの為ということですね(笑)。でもべつに際限なく飛ばすんじゃなく、40km/hなり60km/hまでの加速が早い、ってことなんですけどね。

 50ccがキケンなのはここですね。スクーターとかだと、発進加速は乗用車よりいいんですが、あの理不尽な30km/h制限のおかげで、そのあとで「抜かせないと」ならないわけですね。まぁ野蛮だった昭和の時代とは違って、イマドキは40km/h制限の市街地ではクルマもだいたい40km/hプラスアルファで流れていますから、流れにそって走るのは可能ですが。でも突然、自分だけネズミ捕りにかかる、のキケンはあるわけですね。

 市街地の制限速度がほとんど40km/hの現状、50ccの法定速度も40km/hにするべきですね。まぁいまだに四輪の免許を取得すると実技試験もなくオマケでついてくる現状では難しいかとも思いますが・・・

 で、ウチの世田谷通勤車(週イチですが)、XLR125R。数年越しの調整で、なんとかセッティング出しました。楽器でもバイクでも、履歴がわからない中古は本来の状態が解らず、時間をかけて探っていかなければならないことままあります。改造されていないか、手荒な扱いを受けて本来の状態から逸脱していないか。中古楽器もまったく同じ。でもこのバイクは同じ号棟に住む元バイク便ライダーが、「うえのくんボロだけど乘るならあげるよ」「😍」って経緯で手元に来たので、履歴はハッキリしてる。僕よりよほど几帳面なオジさんが新車で買ったワンオーナー車だったのだから。でもオフロードコースでぶん投げられたりもされてたらしいんですが。

 キャブは純正のままのPD52なんですが、これがなかなかデリケートでして… それが元々なのか、過酷な人生の結果ヒネクレた性格になったのかが判断つかないわけですね。

 この手のホンダ単気筒イジりの基礎を教えてくれたのは、コイツの先代世田谷通勤車だったCD50改110なんですが、それに付いてた得体の知れない中華キャブがなかなかセッティング出せなくて、思い切って新品のPC20に変えたら何もせずにあっさりセッティング決まった経験があります。PC20ってある意味おおらかで、神経質にセッティングせずとも快調に走ったんですが、型番違うとはいえ同じケイヒンでしかも純正採用のキャブがこんなに神経質なのって・・・


 やっぱりぶん投げられた過去を恨んでるのかな?

 

 

 

<i>🎵 固定観念 2023/01/22</i>


階段が鍵盤でなにが悪い?(音は鳴りませんでした)

 ニンゲンともすると固定観念から抜けられない生き物だと思っています。心理的に「囚われやすい」シニアはその傾向強いかも、と。特殊詐欺ってのはこのへんの心理状態をうまく利用してるんだと思いますが・・・


 先週、「ユモレスク」に四苦八苦する生徒さん(シニア)がいたのですね。あれ、Aメロは「ソ、ラソ、ラシ、レミ、レ」って弾くべき(吹くべき)なんですが、どうしても「ソーラ、ソーラ、シーレ、ミーレ」になってしまう。三浦 環のイメージですかね?(たぶん三浦 環聴いたことないと思うんだけど…)

 ボク、「習うより慣れろ」「音符より耳から」をモットーにしているんで、必ず「こういうふうに弾くんですよ」てお手本見せる(聴かせる)ようにするんですが、それでもダメ。本人は「どこが違うのかわからなーい」状態で、ははぁこりゃ聴いてる段階で「ソーラ、ソーラ、シーレ、ミーレ」って脳内変換して聴いてるな、と。そうは弾いてないんだけど。これすなわち固定観念。そう確信したのは、この生徒さん「左手のレ、レ↑レ、↓レソのとこ、弾いてみて」と言っても「どこだかわかりません」。フレーズは小節線のところから始まるもの、と思い込んじゃってるから、1柏めウラウラからのフレーズが認識できないわけですね。


 よく「王様はハダカだ!」って見える目(聴こえる耳)を持とう、て言ってます(笑)。固定観念山盛りのオトナは「王様がハダカで通りを歩くわけがない」と思うわけですが、同じように「楽譜通り(じゃないんだけど…)弾いたし」から抜けられないと自分が弾いた音がちゃんとは聴けないわけですね。その状態だと楽譜も固定観念のひとつになってしまいます…

 現代の五線を使う楽譜って11世紀くらいから(最初は四線だったらしい)みたいだけど、その後の産業革命と同じく、(ヨーロッパの価値観を伝播させるために)さまざまな恩恵をもたらしてくれたと同時に、「便利なモノにはワナがある」の側面も持ち合わせていると思う。音情報の伝達はリアルタイムにそのものを聴いて、多少の口伝で補う、しか出来なかったものが、視覚情報として保存出来るようになったのだから。
でもそれは耳への意識がいくばくか削がれることでもあるよね。

 

 

<span style="font-size: 150%">🏍親子</span>


(GSR250S、車格デカいよね。昭和のナナハンと並べても負けていません)

 

 このところ、バイクに目覚める友人が増えてきました。嬉しいです。べつに僕の身近なところだけではなくて世の中にそういう動きがあるみたいですが、それにはコロナ時代で通勤電車を避けたい、があるようですね。でも僕の友人たちはそういうことではないみたい。みんな「通勤」しないからね(笑)。

 大学時代の同級生、ホルン奏者のT君もそのひとり。彼は最初、取得がラクになった「小型AT限定免許」を取ったのだけど、125のスクーターを買うまえに普通二輪免許にグレードアップ(?)して、熟考のうえでスズキGSR250Sを購入しました。


 先日初めてお披露目してもらいました。「2りんかん府中店」で待ち合わせ。昭和のバイク少年はあのころ道端に停めてバイク談義してたものですが(あのころコンビニもまだあまりなかった)時代変わって、こっちもそれなりにトシとって(笑)、他人の目気にしますから。

  2014年式って言ってたから、ウチの1981年式GS750Gとはちょうど親子ほどの年齢差。店のまわり一周運転させてもらいましたが、いやあスムースな現代のバイク(あたりまえですね)。ヨシムラのマフラー付いてて音もグー。その扱いやすさに驚きましたが、自分のGSに乗り替えての帰り道、ウチのは齢41歳にしてよくフツーに走るよなあ、と改めて感心しました。そして「オレやっぱりこっちがいいや」とも。


 奥のDNはわりあい新しいものですが、手前のがこのところもっぱら吹いているムラマツ・スタンダード。ボディは1970年代終わりころのもの、H足は同じころのミヤザワ、ヘッドは1950年代のムラマツ波型。たまに現代のものも試しますがこちらも同じく、オレこっちのほうがいいや、と。

 

 

 

<i>🎵 The 生 2022/06/07</i>

 もう35年ものお付き合いになる、日本を代表するパントマイミスト、清水きよしさんの舞台音楽を務めるときのセットアップ2022バージョン。2021バージョンとの違いは、シーケンスを入れておくデバイスがノートパソコンからiPhone(機種変更で退役した6s)になりました。

 なぜかというと、「見た目」をコンパクト化したかったから。今回はピアニカを使う演目が含まれていたのでテーブル出してますが、そうでなければ客席から見える音響機材は一式を仕込んだ「フーテンの寅さんトランク」と、マイク・iPhone用の2本のスタンドだけで済むから。
 もうひとつは、ノーパソだと操作している手元は客席からはよく見えないですが、スタンドに立てたiPhoneだと丸見えなんで、あえて「そこで操作している」を見せるためでもあります。

 これは昨年のノーパソ時代なのでPCを載せたテーブルが写っていますが、これがiPhone+スタンドに置き換わったわけですね。このトランクってのはアンプその他を生々しく見せたくないからで、足元のペダルやケーブルなどのいかんともしがたいモノが多少残りますが、「電気」や「スピーカー」的なものは極力見せないように、とのこだわりなんです。「見せたいもの」と「見せたくないもの」の仕分けですね。

 そもそも大した音圧では鳴らさないので、マイク1本立てておけばあとは会場側の音響システムに送ればいいんでね?となりますが、ここにもう一つの大きなこだわり、「バーチャル拒否」があるのですね。

 ホールでもライブハウスでも、映画館でも、スピーカーは両ソデにありますよね。映画館のマルチチャンネルでセンタースピーカーがあったとしてもプロセニアムに仕込んである。ド真ん中にあったらジャマだからね。つまりステレオにしてもマルチchにしても、スピーカーのないところに音像が定位するようになってるわけですね。

 あれキライなの。「バーチャル」っていうと聞こえいいけど、「ウソ」だろ、って。ヘンクツですねーイマドキ誰もそんなこと言いませんよね(笑)。

 「生の」舞台、「生の」音楽。「生」の定義ってなんだ?音楽の場合、クラシック系、無農薬農法信奉系のひとたちは「マイク通したら生音じゃないだろ」って言いかねませんが、コンサートじゃないからね。多目的ホールが会場だったとしても、照明吊りますから反響板はゼンブとばしてます。日頃腹筋鍛えてますから音量には自信ありますが、だからと言ってノーマイク(ノーリバーブ)でバリバリ吹いたらそれはガサツなだけ。かといって会場の音響システムに依存してバーチャルな音になるのも嫌なわけです。

 そこまでワガママ言うんだったらそう、ゼンブ自分でやるしかない。トランクに仕込んであるスピーカーからシーケンスとフルートをミックスしたものが点音源的に鳴るようにセットアップするわけです。「会場まんべんなく」なんぞには鳴らさない。「そこで鳴ってるように」聴こえるべく。そして、フィックスの「曲」部分もありますが8割方は即興の、その日その時だけのプレイ。2ステージあったら吹く音は違います。それが「生」だと思うからです。

 まぁお客様にはそのへんの苦労を説明する必要もないし、ひょっとしたら全くムダなこだわりか?とも思うんですが、先日の舞台で「そこで鳴ってる感が素敵でした」と言ってくださった方がいたので、無駄じゃなかったんだ、と(涙)。「見せる手元」のほうも、打ち上げでスタッフのひとりのオジさんが「あれはどういう仕組みなんですか?」とシツコク(笑)食い下がってきたから、してやったり、と。そこで鳴ってる、そこに生きてる、それが俺の考える「生」。

 

 

 

🎵 軽さは正義 🎵  2022/05/27


 たまたまなんですが手元にヤマハの、リングキィのローエンドモデル、281Sと後継281SⅡの両方があるんですね。以前に吹き比べて「なんかだいぶ吹き応えが違うなあ」とは思っていたんですが、製造年代も違うんだしそりゃモデルチェンジするくらいだから何か(おそらくコストダウンのために)変えたんだろ、程度に思っていたのですが…

 今回よーく観察してみました。そしたら思っていた以上に細部が変わったようです。
 ぱっと見た目は同じなんですよ。でも画像のように、ポストが立っている位置や、当然としてポストリブの長さも違います。上が281SⅡ、下が旧い281Sです。画像ないですが、ブリチアルディキィはSⅡではパイプが短くなってポストが太くなっています。ポストリブは主管末端などでも少々異なります。SⅡのほうがポストリブは大きい傾向です。


 ポスト自体の形状も違います。281Sは単純なこけし型ですが、SⅡのほうはスソが広がったこけしです。強度高そうですね。ちなみにYFL-31も手元にあるんですが、こちらは古いほうの281Sと同じ形状。2ケタ番台のモデルは3ケタより古いんで、つまりスソ広がり型のほうが新しい(改良された)型ということですね。

 で、肝心の「軽さは正義」なんですが、281Sが394g、281SⅡが403gで9g「も」違います。たかが9gとおっしゃるかもしれませんが、フルートという楽器、10gも違うと持った感覚は明らかに違います。重心がどこにあるかでも変わりますが。ははぁ吹き比べて感じた違いはかなりここから来てるな、と。念のため頭部管をスワップしてみても同じ印象ですから。いちおうバランス調整はきちんとしてなるべくコンディションを近づけておいて、です。

 楽器に取り付ける、あるいはパーツを交換するアイテムがあれこれ出てますが、そしてそれらも真鍮より銀、銀より金、18金より24金、はたまた水晶(?)と、楽器本体と同じような貴金属崇拝傾向ですが、確かにクラウンに鉄のナット(笑)取り付けてみると音のさまざまな部分が変わります。この場合は鉄ですから貴金属効果(?)ではなく、質量がプラスされたことでの変化ですよね… でも全く「貴金属効果」がないわけじゃないとは思います。同じメーカーのクラウン(ヘッドキャップ)で重量も同じ(キッチンスケールの精度ですが)もの、金メッキと銀メッキのものを取り換えて吹き比べると確かに違うんです。昔、新興宗教の勧誘デモンストレーションで「あなたは暗示にかからないのでダメです」とお墨付き(笑)をもらったことがあるうえののことですから、「プラセボ効果」ではないと思う。感じる違いの90%以上は質量の違いから来ると思いますが、ごくわずか金属自体の効果もあるのかな。たかだかクラウンのメッキでも違いがあるんだから。


 ボクのジャンルだとマイク使うこと多いですが、「コンタクトマイク」(クリップで楽器に取り付ける)だとまぁ楽器が鳴らなくなること。これはクリップが振動を抑えるせいと、トータルでの楽器の質量が増えるからだと思います。

 281SとSⅡどちらがいいか、といえば、個人的にはオリジナルの281Sがだんぜん好みです。ローエンドモデルとは思えないパフォーマンスです。では281SⅡはなぜこうなってしまったのか?

 個人的には(笑)、モノゴトの「真意」は当事者でなければゼッタイにわからない、と思います。察すればいろいろ考えられますが。ヤマハローエンドは、そりゃフルートマニアは造りが粗いの、タンポ蒸してつけてるの(ホンマかいな)と言いますが、この楽器をあの価格で造るには死ぬほどのコストダウンに取組まなければならないはず。やっぱり推察でしかありませんが、最初の、281デビューの時はそれでもそこそこ理想主義に燃えてたんじゃないか、と。コスト上オール洋銀(しか使えない)、パーツも極力他機種と共用、でも逆に洋銀管・インラインストレートを最大限に活かして、出来る範囲のことはゼンブやって軽く造ることでそれらが持つメリットを最大限生かそうとしたんじゃないかな?洋銀製ステューデントモデルでも、400gを切っているものって珍しいですから。まぁすべて単なる偶然の結果、て可能性もありますが。

 そこへレスポンス速めの(SⅡやそのあとの211SⅡなどと比べても)頭部管つけてます。これも一歩間違うと「音出しやすいけど軽薄」と言われかねないんですが、「軽薄」の部分は吹き手がカヴァー出来る設計になっている(と思う)。でもSⅡへのモデルチェンジでは、ポスト・リブ形状の変更からも想像できるように「耐久性アップのためには重量増やむなし」となって「だったら軽やかさよりもしっとり系に」に振られたんじゃないかと思います。

 小中学生だと、「楽器落下事故」はどうしても避けられないことでもあり、多少ブツけても落としても曲がらないポストにしたかったんじゃないか?スクールバンドでのヤマハ200番台の耐久性は圧倒的なものがありますから。で、そこからモノゴトが決まっていって重量は増え、そのことによって従来の「軽やかさ」を手放さざるを得ないのならば方針転換して売れセンでもある「高級機種を思わせる音づくりに」と。ストレートリングキィ本来の目的は置いといて「なんかリングキィのほうがカッコよくみえるし」層を狙おうと。かくして281SⅡはただの穴が開いた211になった。212はまだ吹いたことないですが、211SⅡも「この価格でこんなにしっとりした音なんだ」の印象でしたから、200番台はみんなそちら方向に振ったのでしょうか。途中からインドネシア工場生産になっているそうだから、「造りやすさ」からの要求もあるのかな。

 で、コイツ(古い281S)にとっては「軽さは正義」なのだと理解しましたから、いつも自分の手が小さいことを言い訳に、本当のところは他と同じがイヤだから、の「自分のものマーキング」のためにCキィに張り付けているコインも、いつもは手持ちの1バーツとかなんですが、以前使っていた、たぶん世界最軽量のメキシコのコインを改めて手に入れて貼り付けました。


 大企業ヤマハ、工房系フルートみたいに一人の製作者がすべてを決められるわけはなく、大勢の意見をまとめて製品が生み出されるのだと思いますが、281SとSⅡでは若干のコンセプトチェンジはあったようです。そのへんを勝手に、無責任に想像してみるのが楽しかったりして。

 

 

🎵 狂気 🎵  2022/02/05



 手前は40年以上前のムラマツ・スタンダード。ですが、頭部管は10年ほど前に入手した「波型」のリッププレートのものに替えてあります。銘が無いのではっきりとはわかりませんがおそらくムラマツ製の925銀だと思います。

 波型の歌口って、50年前くらいには日本でそこそこ流行っていたようですね。フルートクラブ版の「アルテフルート教則本」にも図があるし、大学受験前にレッスンしていただいた木下芳丸先生がこのタイプの頭部管を付けた楽器を吹いていらっしゃいました。ムラマツの古いmodel72とか112にはデフォルトでこのタイプの頭部管が付いていたようです。

 model72や112の波型頭部管は洋銀製です。研究用(笑)に1本ずつ持っていますが、形状は銀製と同じ。タネフルートにも波型があり、もう少し後になってサンキョウがハイウエーブという頭部管をラインナップしていましたが、ムラマツの「ムラマツタイプ」はそれらよりもっと露骨に(笑)波打ってプレート中央が凹んでいます。

 波型歌口はその後廃れました。「音量は出るが微妙な音色変化がつけにくい」「アンブシュアが固定され気味で発音が安定はするがppが吹きにくい」と言われていますが、まぁそんなところだと思います。「低音が出しやすい」と書かれていることもありますが、ボク的には現代の楽器のように全音域同じ(ような)アンブシュアで吹けるわけではない、古典的な歌口だと思います。要は下唇が厚めの(ボクもそうですが)ニンゲンにとってはストレートなリッププレートのものよりも下唇の使い方の自由度が広がる、というところでしょうか。それも一長一短ですが…


 じゃあなぜ好き好んでこれを吹くのか?それは一般的なストレートの歌口では出ない「野太い音」が出せるからなのです。言い換えれば下品な音「も」出せる、なんだけど。下品な音「も」出せるフルートなんてそうそうないから。波型のリッププレートの意味は、「緩いアンブシュアでも下唇が安定する」は副次的な産物で、活かすべきは「エッジの長さ」なんじゃないかと思います。マウスホール向こう側のエッジがサイドの盛り上がりに連続しているわけですから実効エッジ長が長い。そしてそれが「野太さ」(倍音に対して基音成分の多さ)に繋がっているんじゃないかと。楽器造りに関しての専門的なことはわかりませんが、「音色の変化がつけにくい」もここから来るんじゃないでしょうか?

 フルート音の倍音成分って、息ビームの両端がマウスホールの左右を「掠って」出ている分があるんじゃないかと思います。息ビームって噴流なわけだから、アパチュアから放出されたあとは拡散しますよね?アパチュアからエッジまではたいした距離じゃないですが、多少なりとも拡散するならばストレートなエッジ(スクエアなマウスホール)だと、エッジ中央部と左右では実効ビーム長が違ってくる気がします。エッジの中央部分とは異なるビーム長、異なる入射角の息ビーム拡散部分が、「音色の豊かさ」を作っているんじゃないか?そう考えると傾向として、スクエアなホールのものは倍音が豊かな派手めな音、丸いホールのものは柔らかく穏やかな音、と言われるのも納得いきます。「ムラマツ波型」ではいわばそのビームが掠めるマウスホール端が「ない」わけですから、そのまま吹くとたしかに倍音成分少ない、音色変化付けにくい、になるわけで、ボク「口内子音」って言ってるんですが、特に低域では口内で発生させる擦過音を補う必要があるんじゃないかと思っています。

 個人的にはジャズフルートてのは「ミスマッチの美」、あるいは「マゾヒスティックな快感」を楽しむもんだと思います。どのようなジャンルの音楽でもさまざまな表情があり表現がありますが、ぶっちゃけフルートでジャズ、やりやすいか?テナー(サックス)でゴリゴリ吹いてたほうがよっぽど苦労が少ない、と思うのはボクだけ?曲はボサノバだけじゃないからね。もちろんどのような場合でもフルートの特性を活かした「軽快さ」「清澄さ」は生きるけど、ジャズスピリッツのメインじゃない。

 たぶん… 歴史的にはエリントン楽団あたりからの伝統… チークタイムのときにサックスセクション休ませとくのはギャラもったいないんで、静かめなフルートでも持ち替えで吹かせっか、ていう、おカネ払う側の都合から始まったと思うんだけど、それは現代まで受け継がれていて、フルバンのサックスのひとは持ち替えでフルート吹きますね。そうすると「フルートとしての理想の音」よりも「ジャズとしての音楽性」のほうが先に立つから(フレージングとか、タンギングとかですね)それらがジャズフルートとして成立するために重要な役割を果たしていると思えます。ゴリゴリ行きたいときはサックスに持ち替えればいいわけだし。


 クラシックから入って、サックス吹かないボクとしては、「自分にとってのジャズフルートの音」を追求することを助けてくれるのがこの、「野太い音も出せる」波型歌口なんです。

 ちなみに画像のむこうはムラマツのDN。14金の頭部管はデフォルトで、ほかの部分もボクの楽器にはめずらしくイジっていません(笑)。それは、たまにコイツ(彼女、ですね。女性名詞だから)を引っ張り出して吹くことで、自分の吹き方があまりに(何かに)特化していないか、を確かめるために、なんです。ベンチマークですね。こっちもちゃんと吹けることを確かめて、安心してまた「狂気の世界」に戻るわけです(笑)。


 ベビーオイルは何に使うかって?ハーモニカのメンテに使います(笑)。

 

 

 

過去の投稿2

🎵 YouTube 2022/09/23


 「YouTube」ってスゴくない?て何をいまさら、かもしれませんが、さまざまな情報、様々なハウツーもアップされていて、モノゴトの解決に役立つことしばしばです。最近は音資料もほとんどこれで済ませてるし(汗)。まぁどんな情報に限らず、容易に手に入るものは玉石混交なので、ちゃんと選ばなければならないですが。インドでは道はひとりだけにではなく3人に訊け、と申します(笑)。

 「〇〇〇とは?」「〇〇〇作ってみた」みたいなの。自分が知らない世界のものは好奇心をかき立てられますね。

 で、それにちょっと習って、ここYouTubeじゃないけど「楽曲作ってみた」を少しだけ公開してみようかなと。でもボクの場合かなり特殊、かなり限定的な使い方が目的なんで、ネット上にあるような「あなたにも出来る作曲の方法」みたいなのとはゼンゼン違うんですが・・・

 だいたいが、やり方がめちゃくちゃ旧いです。PC使わないし、音源は鍵盤のデジタルシンセ2機だけだし。いまDAWを使う若い世代のひとたちには全然参考にもならないだろうな…

 モノは来週に依頼された、プライベートな会でのパントマイム・清水きよしさんの作品。つまりいつものごとく、自作自演でボク自身がアドリブでフルート吹くためのバッキング(カラオケと言うには音が薄い)なわけですね。いままでのお付き合いのなかでは担当したことがない作品なので、実際の演奏はアドリブだとしても、作品の流れに合わせたアウトラインの雰囲気とか、だいたいの尺の見当を検討(笑)するわけですね。打ち込み部分は当然あらかじめ作っておかなければならないし。

 いただいた台本を読んで、まず全体の雰囲気を考えます。鉛筆でのスケッチみたいなもんでしょうか。フルートアドリブと言っても、まったく思いつくまま、気の向くままでは統一感のない散漫なものになってしまいますから・・・ まぁ場合によっては「思いつくまま」のエネルギー感がふさわしいシチュエーションもあるんですが、この場合そうではないです。逆にあまり「事前準備」しすぎたアドリブだと、こぢんまりとしたものになってしまいます。バックグラウンドの録音モノはあくまで即興のフルートを最大限に生かすためのものですから、それ自体の自己主張はかなり控えめにしておきます。

 スケールを統一するか、コードプログレッションするか、モードか、はたまたそれらをブレンドするのか、まではこの段階で決めておきます。つぎはバックの音ですが、今回は(も?)ブ厚い音のイメージではなく、物語のなかから時間軸を象徴する音色と効果音、そして登場人物の中から子供を象徴する3音色を割り当てます。音楽で「解説」するわけではないし、「ピーターと狼」でもないですから、登場キャラすべてに音色を割り当てるわけではありません。


 時間軸担当はmicroXのシンセストリングス。物語の最初と最後に同じモチーフを使い、あとはドローン(持続音)担当でその上にフルートが載ります。スコットランドバグパイプ北インド音楽のタンプーラをリスペクトしています。


 「木こり」のキャラと「子供」はSK-88で。

 なんとかMIDI化せず、弾いて一発録りでいけそうです。MIDI化… シーケンスデータにしてしまうと細かいニュアンスが死んでしまう。鍵盤弾いての一発録りが一番。まぁ本当のところは腕が4~5本ほしいですが。

 だいたいが「シンセ(とは最近あまり呼ばないけど)」てのが本当は不本意なんで、一人でピアノ弾いてギター弾いてハープ弾いて一発録りが理想なんですがそれじゃあ千手観音にでもならないとムリだし、ボク鍵盤しか弾けないし。

 なんとか録音まで済ませて、あとはそれに載っけてあーでもない、こーでもないとフルート吹きながらモチーフを考えます。

 「うえのの曲はわかりにくい」てのが一般的な評なんですが(笑)、そりゃそうだ。「わかりやすいメロディ」作ろうとしてないから。印象派の大作曲家たちが、それまでの和声法ではない和音の使い方で「色」を顕わそうとしたように、「モチーフ」あるいは「響き」だけで色を表現したい、そんなこと考えてます。もちろん奏法もですが。





🎵 麻里さん 2022/02/10


 麻里左貴磨(まり・さきま)さん。フルート職人。楽器製作もされたようです。
 亡くなってもう26年も経つので、若い世代の笛吹きは知らないですよね。情報化社会の今でも、ググっても記事はほとんど出てきません。

 実は僕もお会いしたことはないんです。最初は都下の国立に工房を構えていらしたそうで、そのせいか国立音大の学生・出身者には麻里さんにお世話になっていた方が多く、僕も国立出身の先輩に紹介してもらいました。そのときにはすでに山形の川西町に工房を移していらしたのですね。そのいきさつを「ニュースレター」のようなもので読んだ憶えがあります。

 銀のフルートって、使い続けるうちに黒く変色してくるんですが(アクセサリーと同じ、いぶし銀ですね)、それって酸化だったり硫化だったりなんですが、麻里さんは毎日フルートの修理をされていて「最近はどうも大気の中に含まれる硫化物の影響での硫化銀が多い」と感じられたそうです。ご家族の健康のことも考えると「こんなところには住めん」と。で、住まいも仕事の拠点も地方に移して、「楽器を送る」にまだ抵抗があったそのころに、「宅配便、小包で全国から受け取るスタイル」を始められたのですね。

 なのでさんざんお世話になりながらお会いしたことはなかったんですが、戻ってきた楽器のお仕事の様子とか、添えてくださったお手紙の様子などから、たいへんに誠実な方という印象でした。もうひとつ大事なところは、これは今お世話になっているTさんもですが、僕の楽器って一般的じゃないヘンテコ楽器だったり、おまけに改造してあったりするんですが、そんなことでは一切差別せずに、誠実に扱ってくださったのです。

 先日来、もっぱら吹いているM社の楽器、20年ほど前まで酷使されたあとは楽器庫(またの名は押入れ)でほとんど眠ってたんですが、タンポとかもまぁ全くとは言いませんが狂ってない。うーんと、と考えたらコイツは30年ほど前に麻里さんにタンポ替えてもらった(でそれっきり)んだったと思い出しました。


 修理をお願いする先もいくつか変わりましたが、こんなに長持ちするタンポを使うところはありません。まぁただ長持ちすればいいってもんじゃないですが、「狂わない」から長く使える、ということでもあります。

 今更ながら麻里さんすごいなー、と思って改めてググってみたら、麻里さん1993年に「新素材タンポ」での特許を取っていらしたんですね。今でこそシリコンなどをベースにした「新素材タンポ」は増えてきましたが、麻里さんは30年近く前に使っていらしたんですね…

 現代の「新素材タンポ」も評価はさまざまで、なにを隠そう僕自身も「トラディショナル」なタンポのほうが好みですが、時間が経ってみないとわからないこの耐久性はスゴいと感心します。でもこれじゃあ修理屋さんシゴト減るんじゃね?と思わなくもないんですが。

 ググって出てきた麻里さんの紹介記事の中に「変人と言われた…」てのがありました(笑)。あー仲間だったのかな?僕は麻里さんほど几帳面ではないけど。麻里さん、そんなに健康にも気をつけていらしたのに61歳で亡くなりました。僕も先月61になりましたが、今この楽器を引っ張り出すことになったのもなにかのご縁なのかと思っています。






🎵 暗譜 2022/01/10


 ピアニストは人前で弾くときは基本「暗譜」ですね。クラシックのギタリストもそうかな?ほかの楽器は時と場合により、ひとにより、ですね。ソロではなくアンサンブルの場合は譜面を置きます。これらの違いはその時々のアタマの使い方と絡んでいると思うんですが、なんとなく「暗譜が理想」の思い込みもあります。フルートでもコンチェルトとかだと譜面台立てるのはなんとなく「カッコわる」だもんね。

 ここでのハナシはそれらの状況の違いではなくて、特にシニアの初心者~中級者の場合、「どこまで覚えるか?」なんですが、

 日頃のレッスンから思うに、シニアの場合チマタの常識とはチト違ってもうすこし「覚えない」方向へ振ったほうがメリットが多いと感じています。あくまでも「シニアが音楽を楽しむ」の範疇です。もちろん、ただ「覚えないのススメ」ではなくて、囚われがちなアタマを解放してあげるために、もう少しだけ「記録は紙任せ」の方向へ、てことなんですが。

 いまさらですが、うえのフルート吹きを生業としていて、おシゴトなんで頼まれたものはなんでも吹きますが、自分が本当にやりたいのは「自作自演」なんです。シンガーソングライターのフルート版。足掛け30年以上、書きためた曲がたくさんあります。

 でも、それらの自作って暗譜で吹けないんですね。よくお客様に「自分で作った曲を覚えてないんですかぁ!?」と言われるんですが、正確には「覚えていない」んじゃなくて、演奏するときにはアタマをほかのことに使いたいんですね。

 「暗譜」だと、多かれ少なかれ「記憶を辿る」ことに脳を使います。でも僕は自作の演奏では、その場所ごとに違って響く「ソの音」(だけじゃないですが)をこの場所、この時間、今日のこの天気、この気温でこのお客さんたちに向けてどう料理してお出しするか。畑で野菜作ったのは俺、料理するのも俺、みたいな。吹きながら「4拍先の音は5thのラだけど今日は13thのシにしてみようかな?」と、リアルタイムはそんなことで脳ミソ忙しいんで、「記憶(記録?)」のエリアは楽譜に任せたいんですね。旧いパソコンと同じくアタマ悪いんで(笑)、インターナルのメモリーにゼンブ入れちゃうと動作遅くなるから、ファイルは外のサーバーに、みたいなの?(違うか?)。



 シニアの場合も、「楽譜を読む」ことに使うアタマの使い方が、なんていうかなあ?ある種の「脳の活性化」に結びつくと感じるんです。もちろん自ら楽器を持って音を出すことでも身体あちこちの感覚が刺激されて、全身が活性化されるとは思うんですが。管楽器は呼吸器官も使うしね。

 「読譜力の開発」とセットになりますが、「楽譜を読みながら演奏する」てのはかなり非日常的な脳の使い方をしていると思います。他のシチュエーションで全くないわけではなく、例えば人前で朗読する、などは近いと思いますが、決まっている時間経過の中で進行させなければならないのですね。

 そのためには「記憶」「先読み(平行時間感覚)」「予測」など、人間が持っている能力をかなり高度に組み合わせて使っていると感じます。「ワタクシそんな高度なことはできません」というひとでも無意識のうちにやってます。テンポ保たないとダメだけど。ウチの(シニアの)生徒さん、レッスンでゴリゴリ絞ると(実際はそれほどじゃないですよ)、「あーアタマ揉まれてすっきりした」って帰るひといますが(笑)、これってそういうことなんだな、って思っています。

 読譜に自信がないと、どうしても「覚えてしまおう」となります。それはそれで正しい取り組みなんですが、「その場対応」的なアタマの使い方をすることも、シニアの趣味としては結構重要なんじゃないかと思います。よく(特にピアノは)指先動かしているとボケない、と言われますが、実際にはあまり譜面を読まないジャズピアニストだと、ボケた先輩の例はいくらでもあります。

 ただ、なんでもかんでも覚えない、「非暗譜のススメ」のように受け取られてしまうとちょっと違うんです。ジャズ屋が言う「手クセ」、クラシックでの「スケール・アルペジオ」のようなものは喋るうえでの語彙みたいなもので、あればあるほど財産になると思います。「手クセ」は暗譜領域よりももっと深いところ、小脳記憶なのか他なのかに入っているものに思えます。シニアピアノクラスでも3度5度オクターブくらいは「手の感覚」に入っていないといちいち次の音探すことになるからね。



 日々シニアを観察しながら、このへんの考察をもう少し進めたいと思っています(笑)。







🎵 ピーターとおおかみ 2021/12/10


 セルゲイ・プロコフィエフの音楽劇「ピーターと狼」はオーケストラ演奏とナレーションで進行する作品です。学校公演での定番のひとつですね。

 これをバンドで演ってしまおうと考えたバンドがありました。その名は「きつねのトンプソン」。本来はブルーグラスのバンドなんですが、ふつうは加わらない「木琴」リードのバンドなんです。そもそもが木琴奏者の小山理恵さんが「異次元チャレンジ(笑)」するべくのひとつですから。

 今年はじめにレコーディングにご招待いただいて参加したのですが、このご時世、CD完成後も「プチレコ発ライブ」しかやっていなかったので、今回クリスマスライブとしてのお披露目になります。

 本来「きつねのトンプソン」のメンバーではないナレーションのあしゅら紅丸さんと僕もお呼びいただいて、一緒に盛り上げたいと思います。



 ご予約はフライヤーに記載があるメールアドレスのほうへ。お待ちしています。







🎵 リング・キィかカヴァードか?


 これにもいろいろな意見があります。ここでは「音響学的になんちゃら」みたいなことではなく、あくまでひとりの「吹き手」としてのボクの「私見」として受け取ってください。

 結論からいえば、

「どっちでもいいんじゃない?」

そんな無責任な、と思われるかもしれませんが、実際問題、自分自身がごく最近にリング教からカヴァード教に改宗してしまい、結果「どっちでもいいや」と思ってるんだから仕方ない。実際のところ、現在はクラシック・ジャズ・レッスンと持ち歩く楽器は木管のカヴァード、屋外だったり寒いところだったりに持っていく楽器は半金のリングキィです。150年間共存しているリングキィとカヴァードキィの選択は、チマタ思われているように、リングが上級者向け、カヴァードは初心者向け、のような単純な構図では終わらず、それぞれにアドバンテージ・ディスアドバンテージがあります。音楽のジャンルやスタイルにより、「この場合はリングがベター、はたまたこっちはカヴァードのほうが…」というのがホンネ。

 難しい音響学的理論はおいといて、「吹く立場」からすると、リングキィを使うメリットは、微分音程含め替え指の可能性が増えることと、ハーフオープンを使う音程修正が可能なこと、そしてキィの操作に関わる、いい意味での「曖昧さ」があること。この「曖昧さ」は、東洋的な表現… 音のイメージは自動的に竹または木の笛(当然キィメカニズムがない)の音色(ねいろ)を出したいときにも役立ちます。

 リングキィのキィ開口部の形状もメーカーによって多少違うので、ムラマツ始め日本のメーカーのものは手が小さいボクの指先でも特に問題ありませんが、ヘインズなどは開口部の逆円錐形状が大きくて、ボクの指先だと多少、ムリクリ押し込んで塞いでいる感覚があります。手が大きい、指先が太い外国人だと問題ないんでしょうが。でもこのことが、ボクが吹いた場合にこの楽器が特に「東洋の笛」的なニュアンスがつけやすい理由のような気もします。

 よく言われる、「リングのほうが音色が明るい」は、実際にはチューブの厚みや、歌口のカットに影響されることが多いようです。現代音楽のための特殊奏法はリングキィが前提のことがほとんどで、リングでないと演奏不可能なこともありますが、クラシックの一般的なレパートリィである近代までの作品では、そのようなことはありません。ボクの場合、高音域多用のラテン音楽では、替え指の多さからリングキィが便利。他に、アドリブでベンディングを多用したいスタイルのときに便利さを感じます。そうそう、2005年の秋に、コルカタのカタックダンサーである、スラボニ・ボナジーさんを招聘して共演したとき、彼女のテクストである「マヤの物語」という、ベンガルの農村に暮らす女性のストーリーによるカタックダンスに曲をつけたのですが、このときはインドのバンスリや、日本の尺八・能管をイメージして、バンブートーンやら、メリ・カリ・ムラ息・コロ・ヒシギやら、拡張奏法(というより「よそのうち」のワザ)をさんざん使いましたから、こういうのもリングキィのほうがなにかと便利ですね。例の「東洋の笛」的なイメージですから。でもここ最近は、オールドのフィリップ・ハンミッヒ、そしてその後はやはりオールドのヘインズ、ここ最近はフランツ・メナートの半木管を吹いていますが、これら当然カヴァードキィ。ホレてしまえばアバタもエクボ、(オープンホールが)なけりゃないなりに、何を吹くんでも別にこれで(カヴァード)いいんじゃない?の心境になりつつあります。キィをゆっくり上げることでのポルタメントもどきも出来るし。

 カヴァードキィ特有の音色はキィカップに余分な空間(フィンガーホール)を持たないことからくるものが大きいと思うのですが、音に「一種のピュア感」が… リングよりもあるような… そしてもうひとつは「エッヂ感」のあるレガートですよね。「スポン!」て音が変るカンジね。これはリングではどうやっても出ない、カヴァード独特の「味」のように感じます。ただこれはどのような場合でも「アドバンテージ」になるわけではなく、場合によってはリングキィの「ポルタメント感」のあるレガートのほうがベターにも感じますが… 音の移り変わりの部分を顕微鏡的に見れば、リングのほうが、弦楽器に幾分なりとも近い、と言えるかも。100分の1秒単位での、近似音程から目的の音程に納まるまで移行する過程がね。でもそれは逆に、ベームフルートならではの音の立ち上がり、エッヂのきいたレガートならカヴァードだ、ということにもなるかな。奏法上の問題を別としての、それぞれのキィデザインが音に及ぼす影響、という点だけからみても… 「音」って本当にさまざまな要素が微妙にミックスされて成り立ってるから、単純には決められないよね。今ドイツの木管がインラインリング、カヴァードの両方手元にありますが、音への効果はキィスタイルよりも、材質(片方は「枯れた」グレナディラ、もう一方は比較的新しいコーカスウッド)、歌口(かなり性格が違う)、ウォールの厚み(イェーガーは全管ごんぶと、フィリップは頭部管ヘヴィ・胴体ミディアム)等の差がもたらす違い=作りによる違いのほうがはるかに大きいと感じます。まぁこれは一般的な話しではないかもしれませんが。でも結局どっかで「割り切る」か、「思い込む」しかないのでは?
 ボクはフルートを始めた経緯がチト変わってますので、最初に手にした楽器がリングキィ、それ以後20年以上リングだったのですが、その後オールドのヘインズですべてを吹いていた時には、モダンジャズのフレーズ等にはこっちのほうが合うな、と思いました。アドリブ中のチョッ速のフレーズでは、音のエッジの立ち具合が、カヴァードのほうが合いますね。ボクの場合それよりも、男にしては手が小さいから、オフセットかインラインかの違いによる持ち方の影響のほうが大きいみたい。リングであったとしてもオフセットのほうが有り難い。 

 マルセル・モイーズが終生使ったスペシャル・クェノンはカヴァードだった、は有名なハナシ。たしかにモイーズの古い録音を聴いていると、あのレガート感はカヴァードでないと出ない気がします。それにモイーズはいわゆる現代音楽を嫌っていましたから、リングの必要がある場面もなかったと想像します。他にもクラシックのプレイヤーの情報は割合ありますが、ジャズ系はあんまりですね。不世出の天才、エリック・ドルフィーは、レコード聴いているとどうもリングキィのようですね。(ジャケット写真ではどうもよく解らない。H足であることは解るのだけど)。現代の名手デイヴ・ヴァレンティン、ネスター・トレスら、アメリカのラテンジャズフルーティストもリングキィを使うひとが多いようです。バド・シャンクやフランク・ウェスはカヴァードですね。
 ボクはずっとリングだったから、新たに楽器を選ぶときにも、なんの疑問もなくリングを選んでいたのですが、最初に手にしたカヴァードであるフィリップ・ハンミッヒは90年前にフィリップ本人によって製作されたオールドで、今でこそドイツフルートであるフィリップ・ハンミッヒにもリングキィのモデルはありますが、当時はそんなものが有る筈もなく… ここだけのハナシ、サンキョウフルートの故・久蔵会長にこの楽器のレストア頼んだ際、「ついでにリングに改造できませんかぁ?」と訊いたらみごとに断られました。でも出来上がったフィリップをいろいろな空間で吹いてみての今となっては、久蔵会長のおっしゃる通りで、そげな無理しなくてよかったと思っています。この楽器の場合は、すべての要素がカヴァードのキィスタイルを前提として成立していますから。ドイツフルートのサウンドにはやっぱりカヴァードキィでないと。カヴァード特有のエッジ感が、この楽器の声にはどうしても必要なのです。また脱線しますが、昔はメルセデスフォルクスワーゲンでも、作る側は今みたいなレヴェルでのマーケティングなんかしなかっただろうし、基本的「作り手」の信念と理想でモノ作っていたんだと思う。だからその時代の「モノ」は今のモノより遥かに「重い」し「骨太」だし「堅い」。まあそれって「これが正しいんだからありがたく使えーどうせシロートには解んないんだよオラオラ」というオーボーでもあるのですが。ドイツのフルートも現在では、ベルンハルトはともかく、リヒャルト・フィリップともにリングキィをラインナップするようになったことは、時代を感じさせる部分でもあるし、ある意味寂しくもある。解らないヤツはほっとけよ、と言いたくなる。まぁ商売の都合もあるだろうけど。

 エラそうなことはあまり言えません。誰よりもムリする、しようとするのは他ならぬボクかもですから。フィリップのリングキィ化計画のみならず、チィーとばかりピッチの低いボクのヘインズレギュラーの頭部管を、ヘインズリペアのエキスパートである、江藤さんという修理屋さんに、「少し切ってもらえませんか?」と頼んだら「吹き方が悪いっっ!!!」とエラく怒られたっけ…

 ご質問は、yocchy6456@hotmail.co.jp まで



🎵 黒帯 2016/11/01



 8年前、50代を目前にして、フルコンタクト空手を始めた。ことの起こりはウチのチビ娘。娘は超未熟児で生まれ、保育園時代は常にクラスいちばんのチビ。運動会のかけっこも毎回ビリ。保育園のクラスを廊下から覗いていると、集団行動のなかでなにかと遅れをとるウチの娘を、まわりの友達が助けてくれるシステムが出来上がっている。ウチのはそれをいいことにシッパイは周りに助けてもらうのがアタリマエ、とばかりひっくり返したおもちゃを自分で片付けようともしない。

 こりゃアカンと思った。このままでは周りによたれかかってばかり、他人の気持ちなどなんも感じられない大人になってしまう。わが家の家訓は 1、いいわけをしない。2、卑怯なことをしない。3、てめえのケツはてめえで拭く。なので、チビでも負けないなにかを、自分に自信がもてるなにかを身につけてもらわなければ。で、ウチからすぐの中学校の武道場でカラテをやってると聞きつけて連れていったのですね。

 べつに押し付けるつもりもないから、稽古を見学したあとで「どう?」と聞くとやってみたいという。平日の7時、送り迎えしなければならないがまぁ金曜日の夜の仕事は断るか、と。
 娘を入門させて、金曜日の7時に連れて行って1時間、稽古が終わったら連れて帰る。2週間もすると、自分が1時間なにもしないでじっとしているのが性に合わないことがよくわかった。で、自分も入門させていただいて、一緒に稽古することにしたのだ。

 そのときはなにも知らずに、娘の送り迎えのこともあるので8時からの(大人の)一般部でなく、7時の少年部に入れていただいたのだが… まぁそんなこともあるのだろうくらいに思っていたが、それ以後、少年部で稽古する大人は見たことがない。空手道講士館代表・長谷川一之師範は元全日本チャンピオン、厳しいなかにも暖かいまなざしで子供にも武道の心構えをしっかり説く方だが、柔軟な考え方も、それにユーモアのセンスもお持ちの先生で、けっこう例外的措置だったのだろうと、今では思っている。

 空手道講士館。なにもわからずに、ただウチから一番近いという単純な理由でここに入門したことが、どれだけ幸せなことだったか。娘が生まれて以降、人との出会いに恵まれるようになった… 娘が連れてきた運なのか、子供を持つということはそういうことなのか、そのへんは解らないが、素晴らしい師範、先生方や先輩に恵まれ、さんざんお世話になりながら娘は昨年、自分も先日の秋季審査会で、念願の黒帯をいただくことが出来ました。

 稽古を重ねていると、中高大学時代を通じて運動部経験いっさいなく、その後も不健康なミュージシャン生活だった僕は、自分の身体能力の低さに自分で呆れた。柔軟では固い身体に嫌気がさし、基本稽古では上がらない足に憤り、パンチの威力のなさはこりゃドラえもんとたいして変わらんな、と。


 かたや現役選手である若手の先生方は、山田先生は中量級世界チャンピオン、宮島先生は全日本2連覇と超一流。稽古の合間に先生方が技の練習をしていると、その美しい身体の動きに惚れ惚れする。そして、とても同じことをやってるとは思えずに再びガックシとなるのだ。

 それでものめり込んだのは、「こりゃ楽器のコントロールと根っこは一緒だな」と思えたこと。演舞の型や、試合ではその場でアタマをフル回転してやることでは間に合わず、そのために日々稽古を積み重ねて身体の記憶をつくるのですが、これって楽器と全く同じ。その身体記憶をつくるためにひたすら繰り返すことが大切なのも同じ。そしてもうひとつ好みに合ったのは、評価基準がひとつにはならない音楽と違って、試合では勝敗がはっきりしていること。まぁときにはビミョーな判定、というときもありますが。


 今の時代、どのスポーツでもそうですが20世紀に比べると科学的分析が進んだ。強いパンチ・キック、それに流れるような技の連続のためには身体のどこを使い、どこを鍛えるべきなのか。昭和の根性論とは違うアプローチをするようになっている。だから現役の選手は驚異的なパワーがありながら無駄な筋肉は持っていない。シュワルツネッガーが最強の選手ではないのだ。

 そりゃそれなりに代償も払いました。アバラにヒビはいること数回。突き指、肩肘故障数しれず。右肩はもはや完全に元通りにはならないようで、動作範囲がかなり狭くなってしまったし、これからの季節、バイクで寒風にさらされると結構痛む。右薬指の関節も元通りにはならないみたいだしなぁ。ケガするといつも師範が「うえのさん、完全に治るまで組手はやっちゃいけません。元に戻らなくなりますからね」と怖い顔でおっしゃるのだが、そうは言っても治りの遅いシニア、我慢できずに適当なところで「治りましたぁ」と組手稽古に出ていた報いなのですが。

 でも、「怪我の巧名」(文字通り)じゃないけど、ケガしてみて初めて理解した身体のしくみって、結構あるんだ。いちばん突き指しやすいのは指の第2関節ですが、ここをやっちまってもフルートは吹けるしピアノも弾ける。まぁ痛みはしますけどね。指を動かす筋肉の仕組みは複雑ですが、掌よりも総指伸筋はじめ前腕のほうが重要なことが、ケガすると解る。すると、フルートの理想的な「構え」がおのずと見えてくる。まぁこれは屁理屈の類かもしれませんが。

 音楽も仕事にするとイヤでも出くわす理不尽、ブラックな世界。まぁいつもでないとは言え、だいたいがグレー。府中道場にはこれから全日本を連覇するであろう素晴らしい選手、Y君がいるんですが、中学生時代までは空手をやっていたものの高校・大学は野球に打ち込んでいた彼が空手に戻ってきて、茶帯で足踏みしていた僕をあっという間に追い越して黒帯昇段審査を受けるまえ、師範がわざわざ僕のところへいらして「Yを先に(僕を追い越して)昇段させます」とおっしゃった。さいしょは師範何をおっしゃってるのかと思った。僕はもちろん、彼の実力から言って僕より先に黒帯になるのが当然と思っていたし、だいたいがヘロヘロな趣味のシニアと現役選手だし。いくら在籍上は僕のほうが先輩とはいえ、師範がわざわざ筋を通されたことに新鮮な感動を覚えた。そりゃ空手の世界も外ではいろいろあるが、すくなくともここ講士館の中ではわけのわからない、筋の通らないことはないのだ。


 自分が生徒たちに接する姿勢も、こうありたいと思います。




🎵 顕在意識・潜在意識 2018/01/22


 心理学での「顕在意識・潜在意識」とは少し違うのかもしれないけれど、楽器を演奏するとき、それにもう一段階外側の音楽を認識するときにも、顕在意識と潜在意識が深く関わっているように思える。


 楽器奏者は、初めて見る譜面、それもややこしい譜面は「譜読み」と称して、ゆっくりのテンポで、ひとつひとつの音を確認しながら鳴らしていく作業から始める。

 この作業は顕在意識でひとつひとつの音を認識しているからにほかならない。そして無意識のうちに、経験に応じて潜在領域の書庫に収納されている「スケール・アルペジオ」のデータが使える場所を摺りあわせている。そこからテンポをあげていって、指定のテンポ、本来のテンポで、理想は「居眠りしていても吹ける」(弾ける)状態を目指す。「スケール・アルペジオのデータ」をペーストした文書データ自体が潜在書庫に入っている状態。自分の場合、16分音符より細かい音符は「潜在意識コントロール」になっていなければならず、対して4分音符以上、さらにカンタービレだったりは「その場意識」が重要な気がする。ボケッと吹いていてはカンタービレにはならない。細かい音符を追いかけることは潜在意識に任せて、顕在意識のほうはその先のこと… 音楽的な表現とか、アンサンブルとか、そういうことを考えられる状態にもっていくわけですね。少なくとも僕はそう認識している。


 やっぱり、いわゆるの「潜在意識」とは違うのかもしれない。潜在意識とは、在ることはあるが、容易には水面上に持ってこられないもののようだから。だから自由連想法とか催眠療法とかがあるわけでしょ? 音楽家が楽器奏法から考えたタワゴトだと思ってください。楽器演奏の場合、運指のデータ、音のコントロールに関するデータ、それにフレーズのファイルなどが、全部は机の上には並んではいないが、書庫にきちんと整理されて収まっていて、しかもインデックスがちゃんとしていてスグに取り出せる状態でないと、みたいな感覚だから。この場合「潜在記憶」ですかね?

 それでもクラシックの場合は、書庫に収納されているのはスケールだったりアルペジオだったりなわけですが、ジャズのアドリブでは記憶してある「ジャズフレーズ」をもう少し手前に置いとかないと… アドリブコーラスが進行しているその場で記憶を繋いで並べていかなければならないわけですから、「机の上」には乗り切らないとしても、「部屋の中」にはブチまけとかないと… それでもアップテンポになると、ほとんど「身体が勝手に吹いている」状態じゃないと間に合わない。やっぱり自分的な感覚でいえば、「場所はちゃんと解っているがブチまけられている」状態で、その中を飛び回って拾い上げていく感覚。決して優等生の学級委員の部屋のように整然とはしていない。お行儀よく「廊下(この場合部屋の中ですが)は走らない」を守ってもいない。

 ヒューバート・ロウズに師事したセンパイの話しだと、ヒューバートの日課練習はコーラス単位で纏めたものを繰り返す(クラシックの練習方法に似ている)ものだそうです。この場合、「文書単位」のなぞり書き作業なわけですね。

 「お行儀よく」ない要素は発音にも関わる気がする。ジャズ・トーンはクラシックのそれのように十分に準備して、整えて発音していたらお行儀が良すぎだし、間に合わない。もっと「いい意味でザツな」吹き方じゃないと。ジャズ屋がアドリブで吹いている演奏と、それを譜面にしたものをクラシック奏者が「読んで吹く」状態が違って聴こえるのは、そのへんもある気がする。そこのところを、ここまでリクツこねて分析しなくても、聴き手は「無意識下」で、ジャズっぽい演奏とそうでない演奏を判断しているように思う。

 「知識」とか「知恵」のようなものは、顕在意識領域にあるのでしょうか? トシがいけばいくほど、特にシニアの生徒さんをみていると、自身60年、70年(もっとの人も)の経験にがんじがらめにされているように見える。「トシとってから新しいことは覚えにくい」はこのことを指しているのかな?と思う。対してまだ潜在意識コントローラーとしての顕在意識が未熟な小学生は、「よく解らないけど感覚的に捉えた」ことの染み込みが早いこと。

 3学期の練習曲として、「シング・シング・シング」に取り掛かったのですが、「ジャズ」「フルバンサウンド」に馴染みのない南白ウインドアンサンブル、フレーズのリズムを「そこはね、パースパッスパーて吹くんだよ」と「口三味線」で教えると、やれ裏拍だのシンコペだののリクツ抜きであっという間にこなす。みんな天才かと思う。それは映画「スイングガールズ」なんぞカルく超えてる、感動的な世界!!!


 この仕事してると、「事実は小説より面白い」こと、いっぱいあります。


🎵 パーテイション 2021/03/28


 前代未聞の事態のなか、2021年3月の時点ではライブ・舞台公演も少しずつ復活してきました。でも、まだ会場定員の制限や、消毒などの感染拡大防止対策を行ってのうえです。そこで他の楽器よりブが悪いのがフルートという楽器。


 昨年、世界的な感染拡大が問題になってきてスグに、ヤマハミュージックジャパンが研究機関と共同で、管楽器演奏時の「飛沫可視化実験」を行ってウェブ上で公開してくれました。そこではっきりしたのは、まぁわれわれ笛吹きは解ってたことなんですが、「フルートはブが悪い」という結果でした。なぜって、他の管楽器… クラリネットオーボエ、トランペットやトロンボーンは楽器を「咥えてる」または「唇を覆ってる」、つまり飛沫は楽器に吹きこまれて直接は外部に出てこないわけですね。対してフルートは発音原理上、息の半分は外に吹きだしています。いわばノーマスクで口を半分だけ隠して喋ってるようなもんなんですね。


 「可視化実験」では他の管楽器が「セーフ」なのに対して、フルートは「大声で喋ったのと同じ」程度の飛沫が確認されていました。なので、生の舞台が復活することに合わせ、まだワクチン接種が進んでいない現状では「飛沫対策」が必要と考えています。お上品なフルーティストと違って、ボクの場合「スラップ・タンギング」やら「フラッタータンギング」のようなさらに飛沫飛ぶようなことを吹いていることが多いんで(笑)。


 なので、演奏時自身のそばに置けて、持ち運びできるパーティションを試行錯誤してきました。現時点での結論はこれ。市販のものですが、テーブル状の台に固定できる金具が付属していて、楽器・小物置きのテーブルに固定して使います。欠点は… アクリル板が60cm×60cmのサイズなので、クルマでの運搬を余儀なくされる、てことですね。「仕事道具一式はバイクに積めるサイズであるべし」をモットーにしてるんで(笑)。


 けどね、


 これはここで言ってはいけないことかも知れません。ボクには感染症や医学の専門知識はないし、コロナウイルス感染症に関しては専門家もこのあと時間をかけて研究を進めていかなければならないのだと思いますが、「飛沫可視化実験」って、「水分」を「可視化」したんだよね。その画像ではたしかにフルート演奏者から出ている飛沫は1mくらい飛んで床に落ちるか、その先が見えなくなるんだけど、それって1mでなくなるわけじゃないよね。

 飛沫の水分は蒸発してカメラでは捉えられなくなるのだろうけど、もしその飛沫にウイルスが含まれていたなら、その後ウイルスは空中を漂うはず。パーティションで防げるのは飛沫の直撃だけであって、実際に客席最前列から数mはなれている舞台上での対策としては、ほとんどの効果は「視覚的なもの」にとどまると思われます。




 でもこのご時世、「見た目の安心」を提供するのもわれわれ舞台人の責務だと思います。ひとの考え、感覚はひとそれぞれで、レッスン生たちも緊急事態宣言中はレッスンお休み、の選択をしたひともいるし、メンタルケアのために音楽レッスン、音楽の楽しみは「不要不急」じゃない、と考えたひともいます。この状況下でそのライブなり、舞台なりに足を運んでくださったお客様にたいして、「実際の効果うんぬん」よりも「配慮しています」のアピールが大事なんだと思っています。そのことが少しでも、不安を感じずに舞台を楽しんでもらえることにつながるのならば。このご時世、われわれがお客様に出来ることは、まぁ平時でも同じなんですがお客様に「楽しんでもらうこと」ですから。


 




🎵 新規捲きなおし 2020/07/19


 「うえの善巳フルート塾」は、開設以来、車返団地3街区集会所をお借りしてレッスンを行ってきました。ですが、今回の事態で、2020年3月末から休講を余儀なくされてきたわけです。

 団地集会所は7月も利用停止のまま。チマタ、Go Toキャンペーンやら、感染防止対策と経済活動再開のバランスやら、混乱は落ち着かない状態ですが、集会所運営は営利活動ではないから、そりゃあ当面閉めとくにこしたことはない。「自粛警察」が出現する日本人の国民性ですから、万一、「集会所で感染発生!」にでもなったら責任の取りようがない。管理組合の立場もよくわかります。

 あくまでも個人的な考えで… 情報その他分析したうえで、ウチのレッスンは再開することに「大問題」はなし、という結論になりました。どんなことでも「リスクゼロ」にはならない。でもわずかなリスクと、おおげさに言えば「心の糧」を天秤にかけると、ここらで再開するってんもんだろ、という結論です。

 生徒さんのおひとりのツテで、西武多摩川線是政駅ちかくのコーヒーハウスを、日曜日にお借りできることになりました。明るくてとても雰囲気の良いお店です。そうなると夢は膨らんできて、やはり以前から考えていた「定期ライブ」もここで出来るかな、と。

 たまたま「with コロナ」時代の指針と合致するけど、以前から、10~20人程度のキャパで定期的にライブやりたい、と思っていたのですね。「営業トーク」が嫌いなボクは、集客のために必死にならなくてはならない規模ではやりたくない。何千人、何万人規模は、イケメン芝居か、ジャニーズライブに任せておけばいい。「継続」に四苦八苦しないですむレベルで、そして「ライブハウス」でも「ホール」でもない場所で、全員と目を交わせる少しのお客さんと触れ合えるライブがしたい、と思っていました。そこで考えた企画のひとつがこれ。


 「茶房 でこ」西武多摩川線是政駅徒歩1分 レッスンは毎週日曜日です。ライブは具体的な日程を決めたらまたお知らせしますね。

 もうひとつ考えているのは…

 やはりコロナ休校・休業になってから、多摩川の河原で楽器練習しているひと、増えました。ずっと以前から、日本の住宅事情と音楽について考えてきました。自分自身も「練習出来る環境」を手に入れるためにずいぶん苦労しましたから。
 今のところレッスン生は少ないので、日曜日の残りの時間、「練習場所」として提供できないかな?と思います。こちらは基本的にフルートレッスンではなくて個人練習、自主練習。「貸し切り」ではありません。練習場所としてのオープンスペース。他の人がいると気になる神経質なひとには向かないかなあ… ご希望があればワンポイントアドヴァイスくらいはします。スペースに限りもあるので、楽器はフルート限定、混みあわないように時間も予約制にしようと思います。でもどんだけ需要があるかわからないので、興味ある方はご連絡ください。

 yocchy6456@hotmail.co.jp まで。 あ、レッスン生は随時募集してます。


 本当に練習場所の確保に苦労するのは金管・パーカッションの皆さんだとは思いますが・・・


 世の中捨てる神あれば拾う神あり。ご縁あってバッチリの場所とめぐり逢ったので、心機一転、いろいろあたらしいことを考えていきたいと思います。









🎵 老人特性(笑) 2019/12/26


 高齢化社会だから当然なのか、偶然なのかはわかりませんが、もうここ10年以上、プライベートの生徒さんはシニアばかり。あ、ひとりだけ20代の乙女が平均年齢押し下げてくれていますが・・・

 おかげさまで、おぼろげながらシニアに共通する症状が見えてきました(笑)。こちらももう若くはないオトシゴロですから、自身のテクニックを維持、発展させるためにはたいへん参考になります。自分の弱点を知ることが進歩への第一歩だからね(笑)。


 最近、「無意識」というキィワードに凝っているんですが、日常のなかで「意識」(顕在意識)と「無意識」はさまざまに、バランスを取りながら協調していると感じます。テンポがゆっくりで、白玉・四分音符オンリーの曲ならば「顕在意識」オンリーで吹け(弾け)ます。なので初見でも問題ない。ですが十六分音符フレーズの連続などはあらかじめ「無意識」の記憶に入れておく(手続き記憶化しておく)必要があるんじゃないかと。ムカシからセンセーがた、「難しいフレーズは止まらずにに吹けるゆっくりから徐々にテンポを上げて」と言っていたのはこの作業なわけですね。

 プロはたとえ初見だったとしてもある程度細かいフレーズがスグ吹けるのは、えんえんとやらされた(そして今は自身の意志でやってる)スケールやアルペジオが「手続き記憶化」されていて、それを組み合わせて使っているから。パーツは無意識下、組み合わせの采配をふるっているのは顕在意識。だから折り返すスケールなどは「折り返し点」の意識が重要なわけですね。

 ジャズではいわゆる「ジャズフレーズ」的定型文を「無意識記憶」化しておく必要があります。通称「手癖」。その蓄積がないとアドリブにはならない。まぁ他人のアドリブコーラスを「まる憶え」して再生する手もありますが、それってイマイチ、吹いてる本人が楽しくない。要するにそれではクラシックの楽曲を暗譜で吹いてるのと同じ脳のはたらき状態で、脳味噌フル回転させてアドリブひねり出すスリルがないんですね。ジャズ屋に糖尿と破滅型人格が多いのはこのせいなんじゃ?と僕は踏んでるんですが(笑)。


 で、シニア。人生120年を「健康に」送るためには、そりゃ健康管理も重要ですが、「顕在意識と無意識記憶のバランスとりなおし」を常にこころがけることが重要なんじゃ、と思っています。お医者さんには「シロートがなーにエラソーなことを」と言われかねませんが、ン10年、音楽を通してシニアを観察してきて、の感想です。「何十年住んでる自宅の階段である日突然つまずくでしょ?無意識下でアタマが出してる『足をこのくらい上げて』の信号に応える足のほうが性能落ちてるんで、顕在意識で『もっと足あげろ』って信号出さないと」と言ってます。


 「人間とキカイを一緒にするな!」って怒られそうですけど、ウチのバイクたちみたいな昭和生まれだわ、軒並み7万キロ超えだわ、になると、キャブセッティングとかでもサービスマニュアルの基準値通りじゃよう動かんです。ヘタってきたらヘタったなりのバランス取りしないと。まぁキカイの場合、本来ならヘタったパーツは交換して基準値で合わせるべきなんですが、何も新車時の性能を求めるのでなければ騙しダマシでけっこうイケます。


 「吹く(弾く)べきタイミングから遅れる」もよくある事態ですが、アウフタクトなどは逆にほとんどフライングして出てきます。シニアものごとすべてが若いころに比べると遅くしか出来ない自覚があるので、無意識にはやめはやめに信号だす補正をしている・・・ように見えるのですが、これもほとんど「無意識下」なので、たまさか「クスリが効きすぎて」フライングもするように思います。

 自身で「吹く(弾く)べきテンポ」がしっかり認識できれば、クスリの加減を自分で調節出来るので、「テンポをしっかり感じるように」のアドヴァイスは有効なんですが、「他人(若者)のペースにはついていけない」の自覚もあるので、メトロノームとかはまるで親のカタキのように敵視する傾向があるのも悩みのタネ。


 それらこれら、「明日は我が身」の精神で楽しみながらいろいろと方策を考えています。





🎵 ソルダード?ドローン? 🎵 2023/05/14


ワッシャー嵌まってねーし

 フルートのトーンホールには、別部品をはんだ付けするソルダード・トーンホールと、管から引き上げて形作るドローン・トーンホールがあります。それぞれに特徴があって、奏者の好みで選びますが、ドローンのほうがローコストに製作出来ることから低価格帯の楽器はほぼドローン・トーンホール、ソルダードは楽器の材質的にも銀製以上、という図式になってしまっています。

 なので、ソルダード・トーンホールの楽器とドローン・トーンホールの楽器はそもそもモデルが異なることがほとんどで、そうなると頭部管やトーンホール以外のつくりも異なり、楽器の個体差もあるから単純に「トーンホールの作りの違いが音にどう影響するか?」は比較することが難しい… んじゃないか?ムラマツSRとDSは「違う楽器」だからね。

 今サイコーに気に入って吹いている楽器はBettoney社のCADETというモデル、ソルダードトーンホールで洋銀管銀メッキ、というあまりない組み合わせで、たしかに他の楽器にはない個性を強く感じるのですが、それがどの程度ソルダードのトーンホールから来ているものなのか、わからなかったわけですね。トーンホールも含めてのトータルでの個性、という評価にならざるを得ないわけですから。



 それが先日、またしても某オクでCADETの兄貴分たるBettoneyネームの楽器を見つけたのです。商品説明では材質その他の詳細は解らず、でもまぁ比較研究用と思って「エイヤッ!」と落札してみました。

 ネット記事に上がっているBettoneyは銀管ばかりなので、コイツも銀製かと思っていたのですが、手元に来てみると洋銀管銀メッキ。ここは比較には都合良くCADETと同じ、さらに都合良いことにはトーンホールの作りが異なり、これはドローンでしかもカーリングなし。他の条件はなるべく揃った状態でソルダードとドローンを比較したかった訳ですからね。旧いヘインズのレギュラーやアメセル、国産でも旧いムラマツやタネフルート、第一精密などにはドローントーンホールのカーリングなし(切りっぱなし)というのがありました。機械加工技術が未熟だったから、あるいはコストカットのためかと思っていましたが、サックスでは音の点からカーリングを嫌ってわざと切りっぱなしで製作した楽器もあるそうです。「切りっぱなし」とは言っても面取りのヤスリがけはしてあると思いますが。そうじゃないとスキンがすぐ切れちゃうからね。今回のBettoney、これまた比較に都合良いことにポストリブなしで管に直接植えてあるポストもCADETと同じ。てかキィカップの形状が少し異なるだけでその他の作りはCADETとほとんど同じです。まぁ疑問に思うのは弟分たるCADETのほうが何故コスト、手間のかかるソルダード・トーンホールなのか、ってところなんですが…

 新品のとき、それぞれの価格がどうだったのか解らないし、製作年代が異なるのかも知れません。細部の作りを比べるとさほど時代は離れてないように見えるのですが。

 で、本題の「ソルダードとドローンはどう違うか?」なんですが、最低限のタンポ合わせをして(画像のようないい加減な素人工事がされていた部分を直して)吹き比べてみると、チマタ言われている音の特徴でほぼその通りでした。ソルダードは抵抗感がある、ドローンは素直で明るい、てやつですね。頭部管は同じものを使ってです。ちったぁ他人(ひと)が言ってること信じろよ、って?まぁ性格ですから。ただ、「切りっぱなし」特有の音、てのも存在するような気がする。たしかに単なるコストカットだけの意味ではないような。

 旧いムラマツもmodel72あたりのトーンホールは切りっぱなしです。カーリングされている112と比べるとさらに素直な(単純な、とも言えるか?)出音に感じる。72と112では管厚も少し違うような気もしますが…


 それにしても…


 ナショジオチャンネルの「カーSOS」という番組が好きでよく観ます。舞台はイギリス、持ち主にとって思い入れがあるのに事情があってガレージ(納屋)で朽ち果てているクルマを内緒で直して「サープラーイズ‼️」するって内容なんですが、それぞれにさまざまな遍歴があるクルマたちの修理は一筋縄ではいかず、修理担当のファズは毎回「番組の過去の中でも最悪のクルマです」を連発しながら苦労しています。ペイントの下にはパテどころかダンボールが塗り込められていたり、溶接の代わりにリベットでボディが接合されていたり。

 CADETの時は到着した楽器を少し試しただけで「これ使ってみよ」と、いつもヘンテコ楽器を直していただいている田村フルートの田村さんに修理をお願いしたんですね。まぁちょっと見ただけでも場所によりキィカップが傾いているような気もしてたりしたんですが。

 CADETも今回のBettoneyもおそらくおん歳70くらい、その人生(楽器生)のなかで何人もの人の手に渡り、修理(バラ)したひとも何人もいたでしょう。みんながちゃんと扱うはずはなく、そもそも製造時の工作精度にしてからが同時代のムラマツ並のはずもなく、画像のGキィのようなダンボール修理(?)をされているところも、CADETにもたくさんあったでしょう。

 「この(ヘンテコ)楽器を吹いてみたい」の好き勝手な欲望が実現してキブン良く吹いていられるのはひとえに直してくださるリペアさんのおかげです。たぶん毎回「過去にうえのさんが送ってきた楽器の中でも最悪の楽器です」と呟いていらしたとは思うんですが…(汗)。改めて田村さんに感謝です🙇‍♂️

 ですが今回のBettoneyは田村さんに直してもらってもダメフルートだと思う。トーンホールの違いとは別の次元で。CADETとのクォリティの差がナゾです。






🎵 歌口考 🎵  2023/01/13

 この数か月、手持ちの楽器をあっちに行ったり、こっちに行ったりしていたのですね。「ここ数年」かも知れない。フルート吹きとしての自分て日進月歩しているわけですが、10年前に感じていたことと今感じることは違う。まぁ逆に「フルート吹き始めた高校生のころと指向は変わらんな」と思う部分もあるのですが。「出したい音」と「吹きやすさ」の兼ね合いですよね。初心者じゃないんだから「吹きやすさ」はないだろ、てご意見もあるかと思いますが、空想の世界ではなく、机上の空論ではなく「出したい音」を吹くために疲労が伴うようじゃあ現実的ではありません。吉田雅夫先生もどこかに「平均以上の楽器ならどんな楽器でも鳴らせる」と書いておられましたが、こちとらも40年以上吹いているんだからちゃんとした楽器だったらどんな楽器でも吹ける。でも「出したい音(響き)」と「吹きやすさ(望む音のコントロールのやりやすさ)」を追求しだすとどれでもいい訳ではなくなってきますよね。吹きやすければパフォーマンスはアップしますから。

 で、このヘンタイ楽器の登場なのですが、胴体は学生時代に(から)吹いていたムラマツ・スタンダードです。1970年代後半のものですね。足部管は、この画像ではミヤザワ製のH足ですが、今はオリジナルのC足で使っています。ここまではまぁ普通ですね。ヘンタイなのは頭部管で、某オクでジャンク漁りをしていて見つけたムラマツM-120についていた波型のものです。

 このM-120なんですが、前オーナーは実験魔(笑)だったらしく、いろいろとイジられていました。タンポもご自分で交換されたらしく、詳細はここでは控えますが、まぁ失敗(笑)。「鳴らない」胴体になってしまっていましたが、問題は頭部管です。

 何も先入観なしに吹いてみて(ほかの胴体で)、悪くない・・・てか、なかなかグーです。でもバラしてみると(ヘッドコルクだけですが)あーらびっくり。ユルユルのヘッドコルクにアルミテープが巻かれて、それでも緩い状態で収まっていました。ま、息漏れはなかったんですが、セオリー通り新品のコルクに取り換えて吹いてみると・・・

 「鳴らない (゜-゜)」

 ヘッドコルクはキツすぎるとと管の振動をミュートしてしまうのだと思います。頭部管・足部管のジョイントなども、「固ければいい」というわけではないそうですね。モチロン緩すぎて勝手に廻ってしまったり、息もれしてはダメですが、オールドフレンチなどは、足部管ジョイントは緩めがデフォルトらしい。モノ同士の結合って、ガッチリと一体剛性が出るようにする場合と、共振を抑えるために緩くする場合の両方、てのはバイクにもあります。フレンチだけではなく旧いドイツものでもたまにある、足部管のジョイントが長く造られているものってのは「緩め」でも脱落しないように、ってことなんでしょうか?
 で、ヘッドコルクは元に戻しました。このM-120の元オーナーほどではないですがうえのも実験魔のハシクレを自認していますから、このユルユルヘッドコルクをほかの頭部管に交換して試してみましたが、よくはならないです。他のものはセオリー通りの状態が一番いい。うーむなんなんでしょうか?

 「うーむ」とうなる部分はもうひとつあって、この頭部管、ボコボコなんです。遠目にはわからないですが、細かい凹みがジョイント部分以外の全体にあります。雪平鍋のようです。
 ブツけてへこましたのならばこんなに全体には及ばないだろうし、以前、椅子の上に置いていたら誰かがその上に座ってしまってペチャンコになったのを復元して… でも小凹は取り切れませんでした、てのを見せてもらったことがありますがそれとも違う。常識では「ボアは可能な限り滑らかに」じゃない?でも木管の場合は当然木目とか、導水管とかがあって限界あるよね。インレットマニホールドもムカシは「鏡面に磨く」だったのが今では「表面の粗さを残した」ほうが吸気効率はアップする、と常識変わったのだから、この「雪平加工」の効果は? 吹いて悪くないのだからま、いっか。ここを解明するには「雪平鍋」じゃない同じモデルの頭部管と比べたいところですが、年代モノだし製作本数も少ないだろうから難しいですね。

 だいたいが、「実験魔の前オーナー」だったんだからM-120オリジナルの頭部管じゃないかも。「M-120」になってからは頭部管には例のムラマツマークが入っているはず。標準の頭部管はストレートだし。これよりも少しまえの時代のmodel72とかmodel112も持ってるんですが、全く同じ形状なのでその時代のものか?72や112は吹いた感じは確かに違うんですが材質も違うし、「雪平鍋効果」の程はわからないなぁ、いまのところ。手持ちの頭部管1本ボコボコにしてみるしかないか?




 前オーナーの実験結果はここらで置いておいて、はい、最大のヘンタイポイント「ムラマツ波型リッププレート」なんですが、
 たしか、フルートクラブ版の黄色いアルテス(アルテか?)には図があって、「特殊な奏法の人に向く」って書いてあった気が… 「特殊な奏法」ってなんだ?これが吹きやすいボクは「特殊な奏法」なのか?

 これもどこかに書いてあったけど、「フルートは唇の薄いひとが向いている」説。昭和の、吹奏楽コンクール強豪校には、未経験新入部員のパート決めをするのに唇が薄い子をフルートかトランペットに廻したとか廻さなかったとか。唇に限らず歯並び、顔面の筋肉の様子は思っている以上に個人差があると思います。そしてそれがそれぞれの「音の個性」につながるのだと思います。ゴールウェイは何を吹いてもゴールウェイの音。もちろんテクニックでもあるけど。

 音楽するのにパレットの色はなるべくたくさんあったほうがいい。ここでも「出てくる音」と「出したい音」の兼ね合いがあるわけですが。楽器のほうにも「音の個性」があるわけですから、なるべく「好みの音が出しやすい」楽器が相性よい楽器なわけですね。楽器が木製だった時代は、リッププレート(に相当する部分)は楽器の直径で決まってしまっていた。現代の金属製はその制約から解放されたので、リッププレート手前を低くしたり、向こう側も急降下状態にしたりして現代求められるシャープな音を指向しているようです。リバイバル木管もその手の歌口をオプションにしている。そしてそれらの要素、下唇の動きやすさや当たりの安定などのバランスが最適なのが現代で一般的なストレートのリッププレート形状なのでしょう。バランス、大事ですから。

 じゃあ波型の意味は?あくまでも自分の場合は、ですが(現代でこれを吹くヘンタイは他にはいないようでもあるし)、自分、典型的昭和の日本人体型、タラコ唇です。この「ムラマツタイプ」波型リップはマウスホール手前側が極端にえぐれていて、下唇を押しつぶしたり、寄せたり引いたりと邪険にしなくても適正な入射角が取れます。

 波型のリッププレートは、旧いドイツの楽器によくあります。これは愛用のもう一本、フランツ・メナートですが、コイツの場合はリッププレートえぐれていません。ストレートのリッププレートに峰が付いた形状です。ハンミッヒやメーニッヒもそうです。波うっている目的が違う気がする。ドイツのマイスターたちが狙ったのはラファンなどのアドラーと同じく、ホール左右に拡散した息をまとめようとしたのと、チムニーの深い・浅いそれぞれの特性いいトコ取り、それにエッジの実効長の延長なんじゃないか?

 比田井先生が「特殊な奏法」と言った部分はここなのかな、と思うところは、下唇の使い方がチト他とは違う。「ムラマツタイプ」はプレス(下唇を押す)に極端に弱いです。三点支持なんぞとーんでもない。下唇を「タラコのまま」で使えるのと引き換えに、極端に軽いプレスが要求されるのです。ということは、「楽器の持ち方(支え)」も、常識的なものからチーと変更しないと不安定になってしまいます。いわゆる「ロックストロ・ポジション」に近いかと思いますが、詳しくは企業秘密(笑)。クラブ版アルテに載ってる図、ということはハンミッヒやメーニッヒではなく、たぶんムラマツ波型だと思います。(もうひとつタネ・フルートタイプ波型、てのもあるんですが)



 まぁ小難しいことは置いとくとしても、自分が吹きたい音楽、出したい音にはこのヘンタイ楽器が(今のところ)合ってます。
















































































m(_ _)m

過去の投稿1

★他のページから削除した記事ですが、削除した順番に並んでいますので書いた日時は前後しています。

♪ アジアのごはん ♪ 2014/08/25


 仕事柄、海外での演奏が増えてきた頃、はじめて韓国に行ってオドロいたのは、メシがうまいことでした。それも、エラソーな高級料理でなく、庶民が普段フツーに食べているものが、です。韓国で道知事主催晩餐会(?)みたいなのに招待されたこともあったのですが、そこでの韓国高級宮廷料理(舌噛みそうじゃ)よりも、ソウルの街中の食堂のほうがウマい気が… その後、バンコクに入り浸るようになったら、屋台めぐりという楽しみが加わって、アジアンジャンクフード行脚に拍車がかかってしまいました。
 場所によりさまざま違いはありますが… インドでも、そらタマには大ハズしすることもあるけど、10ルピー(30円)程度の喰いモノが充分ウマいです。バンコクの、20バーツ食い放題食堂なんかも、こっちが店の経営を心配するくらいウマいですから。
 好みの問題も絡むとは思います。ボクのばあい、カンペキにB級グルメだし、それと「工場製」の味が極端にダメなんですね。「大量生産系」といいますか、インスタントとか、カンヅメとか、レトルトとかですね。ファミレスも基本的に工場製の味がするでしょ。メシってのは自分で食材買ってきて火入れて、てのが基本の基本でしょ。そこを人任せそれも大量生産になるとあっというまに拝金主義者がロクでもないことを始めるんだよね。見てないのをいいことに。商売の極意はすっかり騙しのテクニックになってしまった。バレなきゃいいって?こちとらダテに舌鍛えてんじゃないんだよ。オンナ子供騙せてもだなぁ… まぁ自分で料理するにしても国内産肉も野菜も信用ならない今日このごろではあるが。
 まぁバンコクのバーミーも、いまや日本ではお目にかからなくなった「○の素」タップリの味ですけどね。でも目の前にすべて見えてるだけはるかにマシ。素直に感心するようなアジをだす屋台のオヤジがいっぱいいます。
 これをウチで、「あのときあそこの店で食べた○○○○の味を再現!」となると、日本では手に入らない食材・調味料が多々あって、断念せざるを得ないことが多かったんですね。10年前に比べればずいぶんとイロイロなものが手に入るようになったとはいえ、「最後の決め手」みたいなものが足りないこともしばしば。たとえば、タイのチャーハン、「カオ・パッ」には、シーズニングソースという、ウスターソースオイスターソースの中間みたいな調味料がどうしても欲しいんだけど、日本のスーパーでは売ってないわな。ロンドンのサインズベリーがうらやましいこと。仕方ないから以前はバンコク行ったときに買いだめしてきてたんだ。

 それがここにきて一挙に解決したのは、ウチのそばの市場、正確には「大東京総合卸売センター」の中に、アジアンミールという、エスニック食材の専門店が出来たからなのですね。この店がスゴイんだ。韓国・中国・タイ・フィリピン・マレーシアその他、アジア中の食材の、めぼしいものはほとんどあるんじゃないか、という勢い。日本でこれだけの需要があるんじゃろか?と思わなくもないのだが…  若い御夫婦が2人でやっているのだけど、ハーブティーの品揃えもすごくて、最近はずいぶん繁盛している。

 興味あったらのぞいてごらん。
 Asian Meal アジアンミール 大東京総合卸売センター(通称府中市場)内 
042−336−6399







♪ 響き ♪ 2018/09/12


 「自分で確かめないと気が済まない」性格はどこから来たか?


 あまり遺伝じゃなさそうだ。おやじもオフクロもとくにエキセントリックなところはない常識人だし。隔世遺伝?ウチの家系は警察官、司法書士、大学教授みたいなカタい職業ばかりで、その可能性もうすい。

 「響き」ってなんだろう?音楽に関するものだと、辞書的には

1,音が広がり伝わること。また、その音。
2,ものに反射して聴こえる音や声。反響。
3,余韻。残響。また、耳に受ける音や声の感じ
4,振動。

 とある。

 自分で楽器をやる人は知っているが、「良い音」を追求するにはこの「響き」が重要になる。ところが、辞書にもあるようにそれはその場所の反射や、空間の広さによっても変わってくるので、なかなか厄介なのですね。

 楽器単独でも「音の芯」的な要素と「響き」的要素があって、響きは場所によって違って聴こえるから、普段両者を合わせて聴いている奏者の耳は、その場所に合わせた補正をしなければならなくなる。まぁだいたいは経験がモノをいうわけですが。


 マニア以外は家に大仰なステレオセットを置かなくなったけど、40年まえくらいの「ハイファイ追求時代」は、スピーカーはデカいほうがエラい、の価値観だった。オーディオショップでJBLとか、タンノイとかのスピーカーを視聴させてもらってその音の豊かさに驚き、とうてい手が出ない価格を眺めてため息をついていた。

 日本のメーカーや、JBLアルテックを始めとするアメリカのメーカーは、スピーカーの箱はガチガチに固め、極力共振が発生しない指向だった。それはそれなんですが、タンノイをはじめイギリス製のスピーカーは「響く」のだ。


 それって「箱鳴り」って言うらしいですが、スピーカーユニットから出る音に雑味を加えず、忠実に鳴らそうとしたら確かに箱は共振しないほうがいい。でもそのような音はなんか「冷たく」聴こえるんですね。よく言えば冷静、客観的な音と言えるんだが。

 あるとき、ステレオ以前の「蓄音機」、それもグレデンザという、100年前くらいにアメリカの金持ちが家に置いていたようなヤツを聴かせてもらって納得した。
 蓄音機はモノラルで、ステレオ効果による「音の拡がり」はないから、箱自体を響かせて「響き」を出そうとしているのですね。




 僕の「ひとりでできるもん」のいちバージョンとして、オルゴールに伴奏させて笛吹く、ってのがあるんですが、本物のリュージュのオルゴールでもやってみたんですけど、任意のスタート・ストップには難あり、曲数にも難あり、ゼンマイほどけてくると自動リタルダンドになるし、ちと現実的じゃない。で、不本意ながらハードウェアには電気とデジタルを使い、でも「オルゴールらしい響き」を出したくて作ったのが上のボックス。どうやって「箱鳴り」させるかを試行錯誤しました。



 で、フルートのほうはこの40000番台のヘインズ。マニアご用達のハンドメイド30000番台とは違い、レギュラーだしディボースケールですが、ヘインズお約束のガタガタキィは健在。今の新しいものはわかりませんが、この時代のヘインズって新品の時からキィのガタはあたりまえ。よく「造りが粗い」って言われるんですが、あるマニアはわざとそう造っている、それによって「楽器の響き」を止めないようにしている、って言うんですよ。

 うーん、自分で試してみたい。本当にガタとったら響きが変わるのか?でも自分でキィのガタ取りはムリだから、修理屋さんにお願いするしかないし、確かめてからまた頼んでもとに戻してもらう?

 呆れられること必至。

 でもたしかに、スピーカーの造り方での、アメリカとイギリスの価値観の違いからすると、「ガタは悪」とは違う価値観もあるかも、とも思い、「自分で確かめないと気が済まない」病は収まらないのです。






♪ アジア一人劇祭 ♪ 2018/08/17


 8月3〜5日、韓国・居昌(コチャン)で開催された第29回アジア一人劇祭に、パントマイム清水きよしさんの音楽担当として参加してきました。
 韓国も暑かったです。韓国人たちは、やはり今年の夏は異常に暑いと言っていました。


 アジア一人劇祭は、日本・インド・マレーシア・台湾と毎年持ち回りで開催していた初期から、韓国・公州での第2期を経て、21世紀に入ってからは慶尚南道の居昌で開催されています。実行委員会の本拠地、施設もここで、廃校になった小学校の建物を県から借り受け、改修して使っています。毎年この時期の開催期間になると校庭に野外ステージを組みます。

 韓国でのイベントに呼んでいただくと毎回感心するのですが、文化活動に対する観客、行政の理解度、それに予算は日本の比ではありません。まったく、国の豊かさとは何をもって量るのか、考えさせられます。K-popは第三次ブームだそうで、日本のジャニーズ系のようなガチャガチャしたものも盛んな反面、伝統的・文化的なものに対する理解もしっかり同居している感触です。



 今年の居昌・アジア一人劇祭は、中国・マレーシア・ヴェトナム・フィリピン・ウズベキスタン・日本そして韓国のチームが出演しました。開催国韓国のチームは、伝統芸能からモダンなアートまでさまざまです。会期中には今後の発展や一人劇(モノドラマ)の定義を議題とするシンポジウムも開催されました。





韓国の伝統影絵。ボイスと打楽器による音楽を伴って上演されますが、音楽のほうはさすがに伝承が途絶えていて、旧い録音を使わざるを得ない状況だそうです。こちらは客席側。





スクリーン裏はこうなっています。大きさの見当がつくでしょうか?





ヴェトナムから参加のディン・リンさん。3代続くフルーティストの家系の、彼は2代目。息子もフルーティストだそうです。今回は姪の木琴奏者と一緒に参加です。




こちら、ディンさんチームリハ中。
しかし変わったカタチの木琴ですね。僕も初めて見ました。音はフツーに木琴の音がするのですが…






♪ チャリティコンサート ♪ 2018/06/05


 6月23日(土曜日)14:00、相鉄線二俣川駅南口からすぐの、カトリック二俣川教会で、ギターの田中春彦さんと2人でコンサートします。


 この、笛吹き無頼漢に頼む教会も教会だと思うが(笑)、田中さんクラシックだけでなく守備範囲広いので、クラシックありジャズあり民族音楽ありの楽しいコンサートにしようと思っています。



 いまのところ予定している曲目は、

  主よ 人の望みの喜びよ
  愛の挨拶
  ゴセック タンブーラン
  マイ ファニー ヴァレンタイン
  オーバー ザ レインボー
  オヨーダ
                  そのほか

 カトリック二俣川教会は、モダンなつくりですがよい響きで、田中さんの繊細な響きと僕の無手勝流(笑)のコントラストを楽しんでいただけると思います。




 チケット・お問い合わせは
二俣川教会 ゆりの会 045-391-6296 
またはwonder-yocchy@docomo.ne.jpへ。

  
 



♪ 個人的には ♪


あなたはだあれ?

 若年層世代のコミュニケーション能力不足と高齢ドライバーのペダル踏み間違え暴走事故。なんの関連もなさそうなこのふたつ、個人的には同じ要因が影響しているのではと思うのだがいかがかな?


 それは「モノとの対話不足」。世の中進化して、便利になって日常のなかで接する「モノ」と対話しなくなったことが影響しているのでは?


 僕がキライなモノその1。「赤外線リモコン」。その2「タッチパネル」。コイツら、こっちの「指令」をちゃんと聴いたんだか聴いてないんだか釈然としない。で、反応にイマイチ納得できないときは何回も繰り返して押す動作がアタリマエになってる。


 あのなあ、ひとになんか言われたら返事しろって。もとい、昔ながらの機械式スイッチなら、「パッチン」という手応えを伴ってONかOFFか示すよね。


 なにアホなことを、とおっしゃるかもしれませんが、これって大事なことなんじゃない?バーチャル世界がフツーな若者たちには変人扱いされそうだが、アクセルペダルとは何なのかを理解しないで踏んづけるようになったから暴走事故は起きる、と個人的には思う。実際、フライバイワイヤになっちまって機械的には繋がっていないことも普通になりつつあるし。もちろん、受け入れていかなければならない「進化」のひとつだろうとは思います。今は過渡期、習熟期なのだろうと。A320だって習熟期には何回も墜落したが、そこにあった新しいチャレンジが航空機の進歩に多大な貢献をしたのですよね。


 高齢ドライバーは(高齢者に限らないようだが)心理的にパニック状態になったら通常では考えられない行動をすることがある、と言われる。でもパニックだからって何もかも解らなくなる訳じゃない。「ブレーキペダルと思い込んでアクセルを踏み続けた」はそもそも、2つのペダルを「進めペダル」「止まれペダル」としてしか捉えてないからなんじゃ?そしてキカイの反応に納得いかないと繰り返し押す(踏む)。そもそもネコとライオンぐらい違うと認識していれば、パニくったとしても間違えてライオンを抱き上げようとはしないだろ、って。


 僕の昭和バイクは走る骨董品なんだが、インジェクションがアタリマエになった最近の大型バイクのアクセルワークは「低回転からガバッっと開ける」ほうがコントロールしやすいそうな。僕のでそんなことをしたらたちまちエンジンは不機嫌のカタマリになっちまうから、エンジンと対話しながら開けていくことが必須。いきおい日常、機械と対話しながらコントロールすることになり、それが楽しいのだが。ちなみに僕のGSは「趣味の旧車」ではなく、おシゴトに乗っていく日常そのものです。でも「楽しみ」ではなく、ただメンドくさいだけ、と言われていまうのが現代。旧い楽器でも同じで、現代的な改良スケールの楽器では気にする必要もないことを、楽器と対話しながら理想の音を追い求めていくのがフルート吹きの楽しみのひとつだと思うんだが、どうも最近の潮流はそうではないらしい。


♪ 説明することの難しさ ♪



 たしかに、10代のときから乗ってる(途中ブランクあるけど)。そのころはリクツなんぞなにも知らず、右コーナーでよくコケた。リターンしてしばらくしても、右コーナーはトラウマになってた。


 小型のオートバイってのは、いい加減に乗ってもなんとかなってしまう。20歳前後という若さもあったし。でも50代になってから、その頃からの憧れだったナナハンに跨ると、そうは問屋が卸さないことを思い知った。

 チマタに溢れる「ライテク教本」にはいろいろ書かれてる。いわく、「低速走行ではニーグリップが重要」「フロントブレーキを開放してバイクを寝かす」「グリップは指3本がけが正しい」うんぬん。

 若い頃に比べれば新しいことを覚えにくくなってる自覚があるオジさんは、フルヘルのなかでブツブツ復唱しながら乗ってる。渋滞に巻き込まれたら「ニーグリップニーグリップ」、目前に右コーナーが現れたら「フロントブレーキ、フロントブレーキ」。で、毎日ではないがブツブツ言いながら6年乗ったら、オジさんには新しい次元が見えたのだ。それは…

 「なんだ、それらこれらって些末事じゃん」

 もちろん、それらひとつひとつは正しいのだが、それが最終目的ではないのだ。最終目的は「バイクの重心をコントロールすること」。300kg近い車両重量に自分の体重をおっかぶせて、手首、膝、腰、足を入力点にして、そしてスロットルとブレーキも入力要素として使って、ビークルダイナミクスをコントロールすることなのだ。

 入力点を意識、あるいは入力量を意識するために、ニーグリップやらステップ荷重やらが必要なわけだ。つまり、最初に「ニーグリップ」を言うのはいわば方便で、「本質」を最初から語ってしまっても理解されないから、ということなのだ。

 これは自分のオシゴトにも言えるな、と思った。腹式呼吸の本質は「息吐出の抑制を横隔膜で、押し出しを腹直筋主体の腹筋で行う」だが、フルート初心者にこんなこと言っても「????」だよね。

 だからとりあえずは順序が先の「吸うほう」に、「横隔膜を下げて息を吸って」と言うわけだが、個人的にはそのあとで、頃合見計らって「本質」、最終目的を説明しておくべきだと思う。生徒が小学生とかだと無理だけど。


 だが実際は、日常ほとんど自律神経任せになっている横隔膜のコントロールを「実感」してもらうだけでもひと苦労。いきおい「はい、目を閉じて自分の体内をイメージしましょう!そしてカラダの奥深くに満たされていく空気を感じましょう!」みたいな、怪しいヨガの先生(ヨガが怪しいのではないですよ!)みたいなモノ言いになる。そして、モノゴトの本質を説明することは難しい、と痛感する。

 結局は、昔から洋の東西問わず行われてきた、師匠と弟子が1対1で向かい合ってオウム返しさせる(そっくりに真似させる)が伝授法の本質なのだと思う。
「楽譜」やら「録音」やらの、便利なモノが出現したおかげで、かえって「本質」を見誤りかねないことになってるんじゃ、とときどき思う。






♪ CM ♪ 2014/03/05



募金は「国境なき医師団日本」に寄付します

 以前、CM音楽の仕事をしてる時によく思った。「俺はこの仕事をしてていいのか?」

 CMの録音、末端のプレイヤーはなんのCMなのかわからないまま終了することは珍しくない。べつに末端プレイヤーの名前が出るわけではないとはいえ、得体の知れない健康食品だったり、アヤシイ通販だったりする可能性はあるわけだ。そんなもんに自分の音が添えられてるのって、寝覚め悪くないか?

 基本的にオシゴトってのは、そんなこと言ってたら成り立たない。ギャラを払ってくれる人がいて、持てる能力を総動員してその人の要望に応えようとするのが職人としての仕事ってもん。まぁ俺がいくつになっても青臭いことを言ってるだけ、ってもんでしょうが。

 でも21世紀、グローバル化は否応なくすすみ、自らの行動に以前よりも注意をはらわなくてはいけない時代だと、個人的には思う。何気なくひとつの商品を買ったことが、遠く離れたどこかでだれかを迫害することに繋がっていないか?「否定しないことは肯定したことと同じ」の原則は、現代ではより重みを増していると思う。

 個人レヴェルで「容認出来るか出来ないか」(まぁ好き嫌い)の問題だと思いますが、そもそもTVCMを容認できない(だから地上波民放は見ない… NHKは容認できる、ということではないですからね)俺は、やっぱCM音楽のオシゴトには関わるべきではないわな。

 なんでそんなこと思い出したかというと、昨日「容認できない演奏にどう接するか」があったから。もちろん僕が関わりのないところのことはどうでもいいんだが、安倍首相の国会答弁じゃないけど「関わりを疑われる」場でどういう態度をとるべきなのか。僕が言う「容認できない演奏」は単なる上手い下手ではありません。発表会の子供の演奏はちゃんと「成立」していると思うし、アマチュアの演奏会で一生懸命演奏している姿も微笑ましい。でも時々、なにかをはき違えた設定になっていることがある。

 厳しいことを言わせてもらえば、アマチュア演奏家は「ボランティア」を名乗るべきではない、と思う。俺たちプロが無報酬で演奏すればそれはボランティアだが、アマチュアは本来「カネ払って演奏(練習の「成果」を発表?)させてもらう」べきであるからだ。災害時の労働ボランティアとはチト意味が違う。

 昨日のイベントは、トップが小学生の木管アンサンブル。二番目は民謡と踊り(かっぽれ)。で最後がアマチュアのヴァイオリンとピアノのデュオ。かっぽれはまぁ微笑ましい内容でよかったとして、問題なのは、このオバさんデュオ。全体を僕が制作したかたちになっているにもかかわらず、モロモロの政治的事情で出演が決まった(僕は聴いたことがない)わけだ。宣材用にもらったプロフィールによれば「親しみやすい曲目を、子育てサロン・老人ホーム・デイサービスなどの各所でボランティア演奏、皆様に喜んでいただいております」とある。 

 ここにはいくつか間違い、オバさんの勘違いがある。「親しみやすい曲目を」自体は悪いことでもないが、どちらかといえば本来は「わたしたちが(かろうじて)弾ける曲目を」と書くべき。「ボランティア演奏」は上に書いたとおり。そして「皆様」が喜んでいる訳ではない。


 われわれが舞台を制作して、アンケートをはさんでおいてもそうなのだが、このようなとき日本人は滅多にネガティブな感想は書かないし、言わない。その演奏を聴いてネガティブなキブンいっぱいになってしまったひとはじっと黙ってる。高級有料老人ホームででもないかぎり福祉系はどこも予算が厳しく、そのなかでレクリエーションのプログラムを充実させなければならないので、タダで演奏してくれるアマチュアは有難い。仮に音楽の解るトップがいても、「ひでー演奏だけどタダだからまいっか」。だからオバさまたちの耳に入るのは好意的な感想ばかりなわけだ。そして、そのような場ではそこに居る人々すべてが自分の意思でそこに居るわけではなく、老人ホームなどにはそもそも音楽が嫌い(どんな内容であっても)という人もいる。聴覚その他、感覚が変化してくると「音を聴きたくない」ことだって有り得る。有料公演ならば自由意思でそこに居るひとの割合は高いが、イベント的に「不特定多数」に聴いていただく場で「成立」させるためには、音楽の出来をカヴァーする意味でも内容にマッチした演出が必要だ。

 この日僕は、演目トップの小学生の木管アンサンブルを指導して本番も賛助出演。もちろん近年目覚しくレヴェルが上がったとはいえ、今回の曲目も毎日頑張って朝練したとはいえ、小学生の演奏も拙いことには変わりない。でも彼女たちは揃いのユニフォーム、そして子供特有の一生懸命感がみなぎっていて、意欲だけでは済まない部分は(プロの)大人が補い、曲の合間は僕のMCで笑いも取るから、ちゃんと「成立」させることができるのだ。

 かたやオバさんたちは、一曲目の「タイスの瞑想曲」の第一音から音程外れまくり状態。着用に年齢制限なかったっけ?の肩丸出し、シャイニーオレンジのロングドレス。そして自らが見えないオバさん特有の素っ頓狂なMC。もちろん音楽は音程がすべてではないが、ものには限度があるって。

 僕は勝手に「ニコルスン症候群」と言っているんだが、映画「戦場にかける橋」で、日本陸軍の捕虜になったイギリス軍将校のニコルスン大佐は、当初日本陸軍の斉藤大佐に反発するものの、架橋を急がなければならない日本軍が出した交換条件を呑んで作業に協力するうち、捕虜となってから失われていた自らのプライド、アイデンティティが復活、逆に意欲的に日本軍に協力するようになる。あげくには橋の破壊工作に潜入してきた同胞を妨害しようとして、彼が日本軍の兵士に撃たれてからからはたと気づくのだ。

 そのオバさんたちの演奏を、出番が終わった小学生たちも会場で聴いてたんだが、「タイス」のしょっぱなで僕の隣に座ってた陽菜ちゃんが小声で、

 「せんせい、あれって音外れてませんか?」

 僕は苦笑して「大人の世界にはいろいろあるんだよ」と答えるしかなかった。そして、すくなくとも自分が関わる場ではニ度とこのようなことにならないようしようと心に誓ったのだ。だって一人の大人として、子供達に顔向けできないじゃん。

 ええ、解ってます。僕がいけないんです。聴いたことがあろうがなかろうが、もらったプロフィールをそのままプログラムに載っけたのは僕だからね。僕がプログラムを製作した以上、「文責・うえの」なわけだから。この場合「オンチなオバちゃんのヴァイオリン発表会」って書かなければならなかったわけだ。「音楽ボランティアなんちゃら、多くの福祉施設で演奏」をそのまま載っけたら、それ見た子供は(大人も)それなりの演奏するだろうと思うわな。なにを隠そうこの僕だって、このプロフィールから察するにそれなりの演奏するだろうと思ってたのだから。結局、自らの姿が見えないオバさんと、そのような音楽を提供している福祉業界というものをあらためて確認したわけだ。「否定」しなくちゃ。「否定しないことは肯定したことと同じ」。

 音楽にはちからがある。経営陣の内情にあきれ果てて、とある福祉の現場を離れて久しいが、現場には「音楽が持つちから」を実感できる機会は数々あった。だからこそ、そのような場に音楽を提供する場合は骨太な思想が必要だと思うんだが、ただ現場の実情でいい訳がましい(であろう)状況をつくりだしている福祉業界にもあらためてアイソが尽きた。

 誰しも「生きがい」は大切だ。希望を失っては生きられない。でもそれに目がくらむあまり、本質的なもの、大切なことが見えなくなってしまっては本末転倒だ。音楽は神(この場合の「神」は宗教とは関係ありませんからね)と向き合うもの。友人であるインドの演奏家たちのマインドである、「捧げた音楽に神がご満足くだされば、そこにいる聴衆に恵みをくださる」の図式だ。違う意味での、「お客様は神様です」。僕は三波春夫先生も実はこの意味で言ってたんじゃないかと思うんだが。演奏は自己満足を実現するだけの行為ではない。






♪ 身体記憶 ♪ 2017/06/02


 横浜の老人福祉センターで、「じーばーぴあの」というクラスを持っている。会員10名限定の個人レッスンクラス。自分の出番でないときは聴講してもらう。なんともちからの抜ける会の名前ですが、命名したのは会員のみなさんで僕じゃありません。

 老福カルチャーは、残念ながら「健康上の理由により退会」が付き物なので、多少の出入りはあるのですが、入会条件は「70代でも80代でも大丈夫ですが、これから始める(ピアノ経験のない)ひと」。すでにある程度弾けるひとはヤ○ハ音楽教室にでも行ってもらうとして、意欲はあるけどトシいってから始めることに尻込みしているひとがターゲットなわけですね。

 「口からでまかせ」に生きたいうえのは、企画立ち上げるときも思いつき。内心本当は「だいじょうぶかいな」と思っているのですが(内緒!)、今回も「だいじょうぶです!!ゼッタイに弾けるようになります!!」と大言壮語して、それを実現するべくあれこれ工夫してきた訳ですね。そのなかから見えてきたのは…

 そりゃたしかに指もこわばり気味のお年頃ですが、じいちゃんばあちゃんたちが「弾きたい」曲の範疇ではそれはそれほど問題ではない。むしろ「アタマを身体にどう結びつけるか」の問題なのだということが解ってきました。

 ピアノを習ったことがないひとは、ほぼ全員「あんな両手を別々に動かすなんて、ワタシには出来ません」とおっしゃるのだが、それは間違い。たしかに右手と左手は違うことを弾いているのだが、「弾けてる」状態ではひとつのこととして、小脳がコントロールしているんですね。

 もちろん最初からじゃありません。最初は、右手のこと、左手のこと、そして楽譜、それぞれを別個に大脳が認識・把握するところから始まります。でもそれを「繰り返し」て、小脳記憶⇒身体記憶にしていかないと、「弾ける」にはならないんですね。それはシニアだけの問題ではなく、子供でも同じです。

 子供の場合はまだ難しいことよく解らず、でも身体は柔らかい(身体記憶が作成されやすい)状態ですから、教師の仕事はいかに飽きさせずに回数繰り返させるか。集中力の続かないコドモのこと、あの手この手、手を変え品を変え、でも回数はこなした、みたいな。

 シニアには、ここのところを理解してもらうのが難しいんですね。コドモと違ってアタマ出来上がってるから、単調な反復練習はスグにアタマが退屈してしまう。ニンゲン「好きこそものの上手なれ」なんで、アタマが退屈すると小脳書き込み効率がガックリ落ちます。それに自分自身自覚あるけど、「トシとってから始めたことは覚えにくい」。小脳に書き込む能力は確かに若い頃より落ちるようです。なので、オトナ対応反復法として、楽曲・文化・音楽史的な、知的好奇心を掻き立ててそれが反復をサポートしてくれるような流れを目指しています。

 世の中には「天才」と思えるひとがどの分野にもいます。「天才」の定義はいろいろありますが、音楽・スポーツの分野では、そのひとつは「小脳書き込み能力の高さ」だと思っています。桐朋でも、空手の道場でも、「天才」的な人物はたくさん見ましたが、彼らの能力のひとつは、凡才よりも「出来るのが早い」わけですね。「よくわからないけど出来る」それは「小脳力」の高さがひとつの理由だとニラんでいます。レヴェルが高くなればなるほど、考えなければならないこと、弾きながら(動作しながら)意識しなければならないことも増えてくる。それらひとつひとつを、演奏中にアタマをフル回転して処理しても間に合いません。どうしても「身体任せ」(小脳任せ?)の部分を増やしていかなければならないわけですね。



 でもひとりの凡才として、「アタマ(大脳)で理解したことを自分の身体を使って実現出来るようになる」過程をたどるのも楽しみ方のひとつ。凡才はその過程を大いに楽しめると思っています。




♪ シンバル反射板 ♪ 2017/04/13


 自称「なんでも屋」ですので、クラシック・ジャズ・ラテン・演歌その他、頼まれればなんでもやります。

 でも、自主制作で「なにやってもいい」状態で舞台を考えるなら… ピアニスト伴奏に頼んで「ロマン・フランス近代作品集」てのは… ない。誰か他のひとがやればいい。じゃあジャズトリオで「ジャズフルート・スタンダード」ってのは? やっぱない。誰かがやるだろ。じゃあ自分が本当にお客様に見せたいパフォーマンスはなにか?

 自覚が足りないのかも知れませんが、本人それほどヘンクツでもないつもりなんですが、「ひとり完結状態」が、ジブン的にはいちばんしっくりくるのですね。

 でも単音楽器であるフルートでは、えんえんと無伴奏ソロを聴かされるのはツラいと思う。学生の頃、ニコレ先生が無伴奏曲だけのプログラムで構成した演奏会聴いたけど、まぁこちらのアタマの中もまだまだだったこともあったと思うけど、大フルーティスト、オーレル・ニコレとはいえ、はっきり言ってツラかった。まぁこういう内容は一般音楽ファン向けというよりは、関係者向けセミナーみたいなもんだけど。

 で、自作曲・自編曲をデジタルに録音しておいて合わせて吹く、てのをよくやるんですが、これは一歩間違えると駆け出しアイドルのカラオケステージ(イメージが旧いか?)になってしまうんですね。

 かれこれ30年くらいあーでもない、こーでもないとしてきた中でだんだん見えてきた図式は、「録音ものは音が厚くなるほどカラオケ臭くなる」。本当は「録音」ではなく「リアル」にこだわりたいが、手は2本しかないし、足は空いてるといっても… 足鍵盤とかも考えたけど、絵面的に「なんか違くね?」って思います。「記録」を拒否して「リアル」にこだわるひとつの方法として、電気的にエフェクター駆使してポリフォニックに鳴らすことも出来ますが、これは演奏中かなり忙しい。それに「フルート演奏のための思考」と「機器操作の思考」は異なる気がする。これを同時に進行させるのはどっちつかずになるリスクが、メリットを超えてしまう気がするのですね。
 以前にブリュッセルで、規模的には世界一と言われている楽器博物館を見たのですが、やはり似たようなことを考えるひとは昔もいたようで、「ひとりで出来るもん」的な合体楽器(?)が以外に多く展示されていたのには驚きました。あれも演奏はそうとう忙しいだろうなぁ。

 いろいろと試行錯誤の結果、記録媒体はデジタル、発音もスピーカー。というところで現在は妥協しています。録音物は「椅子」と考え、そのうえに生きたニンゲンを載せようと。そのかわり、置く場所にふさわしい椅子を選ぶように、スピーカーに趣向を凝らそうと。曲中、テンポを任意に(いつも同じにではなく、その時々で)変化させたいときはシーケンサーも使います。クォーツアナログ時計、と言えなくもないですが、将来的には機械式時計に発展(世間一般的には逆行?)出来ることを願いつつ。

 だからスピーカー、いろいろ作りました。ステレオが嫌い、一点音源にしたいので、ギミックですが旧い大きな電気ラジオのボディのなかにバイアンプ駆動のウーファー・ツィーターを組み込んでみたり。ツィーターも、モノラル状態で空気感の出るものを求めてコーン、ソフトドーム、ハードドーム、ホーンとさまざま試しましたが…

 どれもイマイチ。考えてみたらオーディオデータ自体が20kHzで切れてるんだから、なんぼツィーター変えても空気感はでない、という結論になりました。
 で、こんどは「後から倍音を付加する」コンセプトで、ギターやオートハープのボディにスピーカーユニットを組み込んでみたりしましたが、これもイマイチ。どうやっても楽器のボディが充分には駆動されない。スピーカーの、「電気的エネルギー⇒音響エネルギー」の変換効率ってすごいんだね。楽器はそれよりもゼンゼン効率が悪い「物理的エネルギー⇒音響エネルギー」の変換をしてるわけだ。


 先日、ふと思いついて実験してみたのは、「シンバルを反射板として使う」ことでした。ガワにはヤフオクで買った寅さん風の革トランクを使い、ここにAERのアンプを組み込んでスピーカに対向した位置にシンバルを設置する。

 これがですね、思いのほかうまくいったのですね。明らかにシンバルなしでは無かった倍音領域が出る。かといって嫌な倍音は感じない。サウンドの広がり、響きもシンバルの角度とトランクの蓋で調節可能。持ち運び容易 (^0^)v

 うーん、充分にヘンクツか。





♪「笛吹きインドひとり旅」好評発売中! ♪
代替文
 うえの作家デビュー作、「笛吹きインドひとり旅」、好評いただいています。堅苦しいインドの研究書(?)やガイドブックには載っていないインドの魅力満載! イラストは、フォルクスワーゲンの専門誌等でも活躍中のイラストレーター、二宮 言氏にお願いしました。余談ですが、二宮さんと打ち合わせしていて(彼はニュービートルのオーナーなのです)、なんと同じディーラーにお世話になっていることが判明しました。(世間はせまい・・・) 6月15日には全国書店一斉発売になっております。まだお読みになっていないかたのため(販売促進のため!)ちょっとだけ見せます。


・・・インド滞在5日めにして、そろそろ腹ぐあいがアヤシくなってきた。今回、出かけるまえから考えていたのは、日本からクスリを持っていかないで、腹こわしたらインドのクスリを飲もう、いうことだ。
 食いしん坊の割には胃腸が繊細なボクは、海外で5日以上おナカがもったためしがない。とくにインドは食事が「あれ」だから・・・ つまるところ、毎日「カレー」。むこうではカレーという呼び方はしませんけど。要するにtoo much spicy, too much oilyなのですね。
 で、例のミリオンに、「腹のクスリくれる?」と頼んだら案の定、「ドコガイタイノカトイレニワナンカイイッタノカウンコハカタイノカヤワイノカ○Х△ΩФ・・・・・・」
 あまりにやかましくて閉口したんだけど、文字どおり背に腹はかえられないからね。ちゃんとクスリ買ってきてくれたのはいいんだけど、ミリオンなにを血迷ったか、やおら母性本能発揮して、ほとんど幼稚園児を看病する母親のノリになってきたのにはさらに閉口した・・・

・・・この先をご覧になるには「有料確認」ボタンを押してください・・・





 「日印アナデジ対決2001」ライヴ録音CD発売中(プライヴェート盤)
 2001年10月にラケーシュ・ミシュラ氏(タブラ)、パンカジュ・ミシュラ氏(サーランギ)と共演した、武蔵野芸能劇場でのライヴ録音を限定販売しています。(なくなり次第終了)
収録曲は、・プリヤダナスリ(インド古典音楽) ・PEACE FOR WORLD 2001 (インド古典のスタイルによる新作、うえの善巳共演) ・もみじ(当日のアンコールピース)の3曲です。税込¥1000 TOPページのアドレスへメールでご注文ください。





 「クラシックmeetsダンスビート」一部収録CD発売!
 ここ数年追求(?)してきた、クラシックのメロディとイマ風のビートの合体。今回、ボクのアレンジ1曲と、クラブサウンド業界で活躍中のヴェテラン、岩見正明氏に2曲お願いしたものが完成しました。
 チャルダッシュ(モンティ)/アレンジ・岩見正明
 剣の舞(ハチャトリアン)/     同     
 だったん人の踊り(ボロディン)/アレンジ・うえの善巳
なかなかいいカンジに仕上がりました。「ぴくるす」というオムニバスCDに収録されています。これもプライヴェート版で、残念ながら流通には乗らないので、メールでご注文ください。税込¥2000
































m(_ _)m