さすらいのフルーティストのブログ



2024/02/26更新

🎵 笛の音(ね)
2024/02/26

 もう4年前。ミャンマーの旧首都ヤンゴンのとある寺院で、通訳&ガイドをしてくれたミャンマーの青年。ヤンゴンの学校で日本語勉強したんだって。まぁマイルドにボられたという図式もあるんですが、彼が「お金を貯めていつか日本に行ってみたい」と言うので、喜んでボられたところであります。

 ずっと軍政が続いて、周辺国の経済発展から取り残されたミャンマー。このときは再び軍事クーデターが起きて軍政復活になる直前で、街の人々は「これからは俺たちも頑張れば豊かな生活が出来る」と、みんな目がキラキラしていた時期でした。この青年が日本を訪れるときが早く来るように心から祈っていたんですが…

  ご存知のように、ミャンマーは軍政に逆戻りしてしまった。あのとき出会ったミャンマーの人々は今どうしているのだろう。

 ウクライナも、ガザも大変です。でも世界には同じように大変な目にあっている人はあちこちにいる。シリアの子どもたちはいつになったら銃声を聞かないで済む生活が出来るのだろう。いや、一見ぬるま湯の日本だって、自然災害や個人的な事情でたいへんな思いをしているひとはたくさんいる。

 見なかったことにせず、聞かなかったことにせず、自分に出来ることをする。じゃあ音楽家に出来ることって?

 具体的な寄付とかももちろんあります。だいじです。でも基本は音楽が、笛の音(ね)に何が出来るか、そこを忘れてはいけないんだと思っています。


 日曜日の教室お隣のネパール料理屋さん。休憩時間になるといつも、ネパール人のスタッフがスマホで故郷の音楽を聴いている。
 あんなシチュエーションで聴いてもらえる音楽を、「さーて休憩明けもがんばるかぁー」と思ってもらえる音楽、音を作っていきたいと思っています。ボクたちの仕事って後方支援みたいなもんだと思うんで。





🎵 バレンタインライブ
2024/1/15

 新年早々「あけましておめでとう」と言えないようなニュースが続きました。能登では今日の時点でも救援物資が不足しているところもあるようです。一刻も早い充分な救援と、復興に向けてのモロモロが進むことを祈ります。



 次なる年間行事は節分、そしてバレンタイン・デーなわけですが、節分ライブてのはチトなんだかな(豆投げられそうだし)ですからバレンタイン・ライブをやります。12月の営業、それに我孫子でのライブで好評をいただいた新ユニット「VIPER」でございます😁

 曲目は… まだちゃんと考えてません🙇
まあ「マイ・ファニー・バレンタイン」はあるだろな。あと「オール・オブ・ミー」「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」あたりか。あとは…
 相方のAKIさんとはまだ相談してないんだけど、彼はハワイアンのスペシャリストなんで、そのへんも楽しんでもらおうと思っています。フラダンスは付かないですが。ハワイの音楽というのも奥が深くて、ヒーリングミュージックとしての人気もありますよね。それは歴史的にスピリチュアルな部分を大切にしてきたからでもあるのです。(まぁ民族音楽て多かれ少なかれどれもそうなんですが…)

 会場の都合で全予約制にさせていただきました。お問い合わせ、ご予約は、

yocchy6456@hotmail.co.jp

までお願いします。オトナのためのバレンタイン・ライブ。お楽しみに😄






🎵 オブリ考
2023/12/25

 「オブリ考」ってタイトルで書き出そうとしてふと、「そういえばオブリってなんだ?」と。ボクたちよく使う単語ですが…

 クラシックだと「オブリ」と略しては言わないかな?「オブリガート」だよね。主旋律に対して副次的だけど重要な声部ですね。ジャズでもあまり言わないかなぁ?

 ポップスでの「オブリ」は歌伴ではヴォーカルに絡むフレーズのこと。歌の動きの隙間を埋めるように吹くことが多いから、英語的に正確なところは「フィル」なのかも知れない。でもボクらの感覚だと歌に絡むのがオブリで、歌が止まったところに突っ込む(?)のがフィルなんだけど。

 もちろん歌の邪魔したら駄目だけど、ある時は隙間に、ある時はハモの音へ、またある時は盛り上げ目的で歌と同時進行(やかましくならないように様子見ながら)している時もある。モーツァルトのオペラのように。われわれの場合はアドリブです。つまり、その時々の状況、ヴォーカルの歌い方その他モロモロの条件によりで、いつも同じこと、同じアプローチなわけじゃない。

 昨日のクリスマスライブがまさにこの内容だったんですが、ヴォーカルのAKIさんも、ボクも、そしてお客様も思ったのは「思ってた以上にうまくいった(笑)」。で、なんでかな、って考えてみることにしたわけ。

 だいたいが、この手を頼まれるときの相手は女性ヴォーカルです。クラシックでもフルートオブリガートを伴う曲ってほとんどソプラノのアリアだよね。そういえば「狂乱のアリア」のフルート吹きにミラノまで行ったんだった。

 昨日は、それに今月初めに違うところで営業したときも、それにお店でノンPAでリハしてた時も、声とフルートのブレンド具合が「なんか心地よくね?」だったんですね。女声との相性が良い、は固定観念だったのか?

 でもやはりいろいろな条件が重なっての成果だと思う。昨日のヴォーカルAKIさんは本当にマルチなアーティストなんですが、彼のベーシックのひとつはハワイアンなんですね。ハワイアンの男声ってファルセット的な柔らかい高音をイメージするけど、それだけではなくて「Blue Hawaii」のような声域の低い歌はトレーニングでもあるそうです。そこら辺のアプローチは楽器での「響く音の手に入れ方」と通じるものがあり、相性良くブレンドするのはそのへんの理由もあるのかな?

 ついでにこちらの事情も少々語っておくと(笑)、「独奏ソロフルート」ではなく、時により場合により前に出たり後ろに引いたりが重要なこの立場、少しの息圧コントロールでそのへんが自在に行ける楽器の選択やチューニング(ピッチじゃないです)、奏法の開発も効いてる、と自画自賛しているんですが(笑)。


 アヤしいユニット「Viper」、夏向けのレパートリーも仕込んでリゾート営業しようと、夢は膨らんでおります(大笑)。





🎵 音楽家に出来ること 2023/11/22

 もう20年になるかな?毎週フルートのレッスンを続けている女の子がいる。もう30代だから「子」は失礼なんだけど、いい意味での「子ども扱い」が出来る相手だから。知的障害があるので。

 最初は「フルートのレッスンなんて成り立つんだろうか?」と思ってた。でもお母さんが吹いているのを見ていて、どうしても自分もやってみたい、って言ったんだって。過去の経験から言って、最初の動機がそれならば必ず上手くいく。そのあとで出くわす予想外の困難を乗り越えられるように持っていくのがボクらの仕事、てもん。

 ああいう子って、「フツーの」大人がどんどん失っていく、失わざるを得ない感覚を持ち続けているんですよね。子どもも「小学校に上がるまで」は本当に素晴らしいと、ボクは思ってる。小学校に上がった途端、「社会性を身につける教育」が始まったとたんにその素晴らしさはどんどんスポイルされていくんだよね。

 かと言って学校教育の否定って訳じゃない。インドでは学校に行きたくても様々な事情で行けない子どもたちにも会った。だから枠組みとしては受け入れなければならない現実で、もしそこで音楽家が何か出来ることがあるとすればスポイル要因である「国語・算数・理科・社会」まみれの子どもたちのアタマに、違う感覚的刺激を見せる、聴かせることだと思っています。


 あ、子どものハナシじゃなかった。で、そのウチの生徒さんなんだけど、やっぱり常識に囚われない発想をするわけですね。だからそこんとこを上手く舵取りしてあげるとすごく生き生きとした、音楽的なことを吹けるのね。するとこの無手勝流、アドリブ命のセンセイの出番、ってもんで、毎週楽しく2人で吹いているわけです。

 でもね、ふと気になる時があるんだけど、自信が持てないとき、間違いの解決方法がわからないとき、付き添いで来ているお母さんに頼ろうとするんだよね。その度にボクは「自分で考えろー」って言ってるんだけど。出来るようになったことには自信を持っていいんだよと。そしてその方向へ向かえるように按配してるんだけど、あんまり変化がなかったんですよね。

 今日お母さんから聞いたところでは、彼女昼間はいわゆる授産施設に通ってるんだけど、そこでの指導方針がそうなんだと。作業も「考えずに言われた通りに作業しろ」としか言われないと。そして作業の過程で度々チェックが入り、「言われた通り」に出来ていないと「やり直し」。



 なるほどねぇ… そりゃあ自分で考えられなくなるわな。確かに「言われた通り」に作業しないと売り上げにつながる商品は出来ないかもだけど、そしてそもそもそういう施設の製品は商業化しにくいかもだけど、一般企業のように収益性命、で運営しなければいけないところか?

 もちろんボクは福祉の専門家ではないし、医学の知識があるわけでもない。そして皆さんご存知の通り商売ヘタ。でもひとりの音楽家として、障害があろうがなかろうが、音楽を通して彼女とコミュニケートしている内容が、音楽的な指導が誤っているとも思えない。音楽って「自分で感じて、考えて、楽しむ」ものだから。

 以前に音楽プログラムで関わった他の授産施設ではそんな疑問は持たなかった。みんな生き生きとして楽しそうに作業してた。逆に納得いかなくて大喧嘩してアドバイザーを辞めたワンマン専務理事のワンマン経営社会福祉法人てのもあったから、施設によるのかも知れない。現場にも現場の事情、部外者が青臭い理想論でどうこう言えるようなもんじゃない部分があるだろう。でもその大喧嘩した社会福祉法人は「すべてはひとりひとりのために」て掲げてたんだけど、とてもじゃないがその言葉通りとは思えず、「すべてはやりやすい管理のために」だったんだけど。まぁそれもおそらくは現場の労働力不足とかが絡んでいるとは思いますが…


 音楽家に出来ることってなんだろう。そこを辞めたとき、施設長が最後にボクに言った言葉はある意味全てを象徴してるのかも。それは「あなたは本当に不器用な生き方しか出来ないんだから」。

 不器用でケッコウ。不器用なことがやりたいんだ。長いモノには巻かれない。ハダカの王様はハダカに決まってる(笑)。






🎵 今日の出来事 2023/10/07

10月7日
 今日は音楽&朗読劇「黒浜沼の河童」の舞台稽古。蓮田市民ホール「ハストピア」13:00入り。

 三連休初日を甘くみたつもりはなかったんですが、東北方面はどこもかしこも大渋滞。ナビは東北道のまま行かないで浦和出口で出ろ、という。はあ東北道ずっと渋滞してるんですね。

 それでも当初は「12:50着」と出てたんですが、どうも途中から雲行きあやしくなってきて、結局ハストピア着は13:30。駐車場からダッシュしましたが客席扉の前までくると最初のお題「きっかけ合わせ」はまだ始まってない雰囲気です。13:00「入り」だからね。遅刻には違いないんですが、もう慌てても仕方ないんで、先にトイレにでも行っとくもんだろ、と扉の前をスルーしようとすると、「こども河童合唱隊」のメンバーらしい、4年生くらいの女の子がひとり、中を覗き込みながらがもじもじしている。

 「どうしたの」と声をかけると「集合時間間違えて早くきちゃったんです…」と言う。たしか合唱隊の集合時間は14:30だったよなぁ。このホールは田んぼのど真ん中にあって周囲にはなにもない。「ホールの中で待ってるしかないよね。客席にいて大丈夫だから」と言ってトイレ行ってきたら、まだロビーでもじもじしてた。

 そりゃそうだよね。地元とはいえ普段あんまり来ない場所。友達はまだひとりも来てないし、合唱隊の先生もまだいない。おっかない(失礼!)演出の先生や知らないスタッフのオジさんたちが忙しそうに動き回ってるところにひとりで入るのは勇気がいるだろう。

 ボクはきっかけ合わせに参加しなければならないので一緒にはいてあげられないから、肩を押して制作の女性のところへ連れていって「この子早く来ちゃったんで一緒にいてあげて」と頼んだ。



 その後きっかけ合わせ、通し稽古と慌ただしく時は過ぎ…



 すべてが終了して楽屋口から出ようとしたら、昼間の女の子が待っていた。合唱隊は先に解散した筈なのに…
 そしてぺこりと頭を下げると「さっきはありがとうございました。あの、これ」と言って「たけのこの里」をくれた。

 かわいそうに、よっぽど心細かったんだろう。この世界に慣れきってしまった、遅刻しててもトイレ行くボクとは違って、舞台裏でひとりぼっちのコンサートホールは、怖さすら感じるところがあったんだろう。
 あの子は「慣れっこになってしまった自分」が、わからない、慣れてないひとの不安な気持ちに対して「鈍感な自分」にならないように、を思い出させてくれた気がします。

 しかし「きちんとお礼が言える」素敵な子でした。やさしい親御さんや、あたたかい蓮田の環境に囲まれてしあわせに育っている様子がうかがえます。


 今日こんなステキな出会いがあるんだったら、ヒゲくらい剃っとくんだった。昨日アヤシいプロフィール写真撮ったままで、無精髭ボーボー、アヤしさ満点だったんで… (笑)。








🎵 個展 Ⅰ 2023/07/03

 コロナ騒動が始まってから、自主的な企画はお休みしていました。いまは大人しくしているとき、あるいは充電するときだろ、って。ここに来てようやく、お客様も不安なくいらしていただけるようになったと踏んで、小手調べに自作の曲ばかり並べるライブを企画しました。で、タイトルも「個展 Ⅰ」。Ⅱ、Ⅲに繋げたい、て思いを込めて。

 小規模なライブ、コンサートの時って、主催される団体があればそちらに「ご希望の曲は?」って聞くのがフツーだし、自分で企画するとしても半ば無意識に「通俗名曲」から選んでた。自分のではない演奏会で、行った方に感想聞くと「知らない曲ばかりで…」とおっしゃることがよくあったから。

 なので、「どの曲も誰も知らない」プログラムにはたしてお客様来てくれるのか?会場はホールでもライブハウスでもなく、カフェ… 営業はしないからイベントスペースか?ピアノはアップライトだし。そんなこんなで「定員20名要予約・投げ銭制」で敢行してみることにしたのですね。

 自分としては、そんなに耳当たりの悪い曲を作っているつもりはないんですよ。でもピアニストと伴奏合わせしてると「どうしてこの和音に行くの?」を連発されるんで、やっぱりエキセントリック味が強すぎるのかな?なんて考えたりして。でもお客様和声分析しながら聴くわけじゃないし。

 会場の特色活かすべく、考えられるネガは全部ツブして各要素はポジティブに捉えて。アップライトピアノって、決してグランドピアノの妥協品じゃない。アップライトにはアップライトの良さがある。そこを活かそう、と。だいたいこのスペースにグランドだと、それは音楽を聴く環境じゃなくてピアノ練習室ですわ。ピアノだけでなく、「客席暗く」も出来ない、素の明るさのまま(小規模なスポットはあるんですが)なので、全て逆手に取って思い切り「日常の音作り」をしようと。個人的な感覚だとアップライトは日常(近年は電子ピアノかもだけど)グランドは非日常なのですね。フルートのほうもこのスペースで丁度良くいい音になるようにチューニングしました。たしか誰かがどこかに書いていた気がするんだけど、現代のフルートって大空間対応にフルコングランドピアノ化していると思うんで。本来そういう楽器じゃないと思います。

 「日常の音楽」がコンセプトのひとつです。でもそれはひとそれぞれ。家事しながらのテレビから流れてくるドラマのテーマソングかも知れないし、自分の部屋でスマホにヘッドフォン挿して聴くお気に入りの曲かも知れない。それに対してドレスコード有りのオペラハウスに出かけるのは思い切り非日常。ボクはそんな感覚です。なのでアップライトピアノ、素あかり。


 開けてびっくり玉手箱。満員御礼(20名だけど)、反応も上々。なーんだもっと早くやっとけばよかった(笑)。
 少し前のことなんですが、長い付き合いのセンパイに「うえのくんもそろそろ本当に自分がやりたい事をやったほうがいいよ」と言われて… その時はイマイチ、ピンと来なかったんですが。だってそのセンパイって昔から「自分がやりたい事」ばかりで、「ボクはああは生きられんな」と思ってたから。でも還暦も過ぎて、その言葉を折々に思いだすと、たしかに「頼まれた仕事」をこなしてきたのがほとんどだった、と気がつきました。まぁプレイヤーって一種職人だから、それじゃなきゃギャラ貰えないわけですが。

 「本当に自分がやりたい事」はこれだった、と実感出来ました。誰が吹いても同じ曲、のアリモノではなくて自分のニュアンス満載の自分の曲、おまけに吹くたび少しずつ違う(誰にも文句言われないから)。それにお客様20名って、全員の顔が見える。大袈裟ですが、商売の基本てこれだと思うんですが。日頃感心している商売のお手本のひとつにウチの団地のなかの八百屋さんがあるんですが、どこの団地でも出来たときには団地内商店街に八百屋肉屋魚屋クリーニング屋、って揃ってたのに、ウチの団地も例外なくひとつなくなり、ふたつなくなり生き残っているのは八百屋さんだけ。でもスーパーにツブされずに生き残っているわけは、お客様全員の顔がわかっているからなのですね。
 なので迂闊なモノは売れない。モノがいいから常連はスーパーに行かずにここの八百屋に来る。自分としては肉サカナも並べて欲しいんだけど(笑)。まぁ時々、ちゃんと儲かってるのかヒトゴトながら気になったりしますが。

 効率、能率、利益第一主義ではいいモノは売れない(出来ない)、と信じます。お客様全員の顔が見えるためには200人のホールじゃ無理よね。


 今回大成功だったことに味をしめて、「個展 Ⅱ」「個展 Ⅲ」も企画していきたいと思います。もちろん他の企画も。コロナ自粛の間に暖めていたアイデアもいろいろとあるので。




アメリカンオールドフルートにはアメリカンアンティークウォッチを合わせる(笑)






はいはい、自分の世界生きてます






🎵 気ヲツケ! 2023/03/03

 「起立!気ヲツケ!礼!」っていまでも中学校とかではやるのかなぁ?

 というのは、最近生徒さんたちを後ろから見てて… ボク生徒さんが吹いているときたいてい後ろにいるんです。前に見えてるとどうしても緊張感を誘うんじゃないか、っていうボクなりの気遣い(笑)。で、どうしても背中が気になるんですが…

 背中こわばってるひと、多いですね。特にシニア。そういうひとはほとんどの場合背中だけじゃなくて「肩・背中」なんだけど。彼女(画像)の場合そんなことないですね。いいカンジに肩・背中のチカラ抜けてます(シニアじゃないからか?)。

 シニア=昭和世代。今よりも学校がモロモロ厳しかった時代。「真剣になる=気ヲツケ!」の図式が刷り込まれているのかな?


 シニアの生徒さんたちにいつも言ってることなんですが、「若いひと(ころ)は考えなくても自然に(無意識に)出来ている(いた)ことでも、今の自分のカラダに合わせて意識していかなければならないことってあるんですよ」って。ハムストリングスが衰えてくるからアシ上がらなくなってくるんだし、そうなったら「もっと脚上げて」と意識しなければ躓きます。

 みなさんが手にしているフルート、だいたい400gちょいあります。それを身体のどこで支えているか?腕ですね。で、腕はどこに付いてる?肩ですね。

 さらには、フルートは身体の前面に構えているわけだから、腕だけに留まらず、背筋が収縮して持ち上げています。カラダ前面側の、腹直筋だ横隔膜だのは呼吸法との絡みで意識が行っていますが、背中側がないがしろにされていると感じます。背骨や周辺の筋肉は前屈方向に行きやすくできているわけだから、ほんのすこし前方向に「かがんだ」背骨を背筋で「引っ張る」のが、腕その他の負担を減らすことになるわけですよね。重いもの持ち上げるときだってしゃがんで脚の筋肉のちから使わないと腰を痛めるって言うじゃない?

 たかが400gでも、身体にとってなるべく無理がない持ち方をするべきだと思う。ボク「りきみは伝染する」と思っているので、どこかに無理があると一見関係なさそうな口周りや、指の動きにも影響すると思います。


 もうひとつはめっちゃ筋トレして、「400gなんぞ小指1本で持てるわい」という路線もあるか、とも思いますが…







🎵 新しい年を迎えて 2023/01/01


昨年の夏、仕事先…だった筈の釜山へ向かう途中で
娘はアシスタントという名の社会勉強。まぁ役には立たないんですが…


 暮れに、大掃除… とまではいかないけれどいろいろと片付け事をしていて、かなり古い手紙の束が出てきたんですね。モノ捨てられない性格なんで、思わぬものとコンニチハ、はままあることなんですが、レッスンの問い合わせやら、ムカシ書いたエッセイへのファンレターというか、感想文というか… そのエッセイなんか書いたことすら忘れていたのですけど。

 もう若くない、ってことはその間たくさんのことを見て聞いて出会って… アタマ悪いんだからそら片端から忘れるわな、とも思うんですが、逆に年月を経てより鮮明になる記憶、てのもありますよね。

 おかげさまで、娘も今年、成人式を迎える歳になりました。でもその20年の間に「ウチの娘と同じくらいの歳なのに」と胸が詰まるような思いをしたことが何度かあるのです。


 一度は、インドでの「ノンヴァーバルアーツフェスティバル」に参加したときのこと。ノンヴァーバルアーツ・・・非言語的芸術の名の通り、このときはインド・アイルランドスウェーデン・韓国のパフォーマー、ミュージシャンが集まっての「国際興行集団」だったのですが、日本からの参加はボクだけ。ひとつの街での公演が終わると一同貸し切りバスに詰め込まれて次の街を目指す、というなんとも牧歌的、ピンキーとキラーズ状態だったのですが…

 ある朝、バスは出発して街道を走って行く。ボクは窓に広がるインドの農村風景を眺めていたのですが、道端のバラックの傍らに黄色のワンピースを着た5歳くらいの女の子が立っていたのです。
 黄色の、と言っても洗いざらして、とても鮮やかとはいえない黄色だったのだろうと思う。でも年月を経るにつれ、記憶の中でのそのワンピースの色が「シンドラーのリスト」のワンシーンのように、より鮮明な黄色になってくるのです。
 貧富の差激しいインド、貧困層はあらゆる場所に住んでいる。駅のホームだったり、街中の地下道だったり。街道わきにバラックを建てられるのはまだマシなほうなのかも知れない。たまたまボクの隣の席に座っていたこのフェスティバルのプロデューサー、チャテルジーさんにボクは聞いた。

 「あの子、ちゃんと毎日ご飯をおなか一杯食べられる?」

 チャテルジーさんは難しい顔で少し黙り込んでから、「無理だろうね。あの子はいつもお腹をすかせているだろう」

 それを聞いて、自分でも思いがけずに涙が溢れた。なぜならばその時、娘がちょうど彼女と同じくらいの年齢だったから。生まれた場所が違うだけで、なぜ彼女はこのような不条理を受け入れなければならないのだろう?



 もう一度は、バリ島のウブド。ウチの両親と義両親、ウチ3人という三世代珍道中だったんですが、小学生になっていた娘は両家にとって唯一の孫で、長患いしていたボクの母にとっては孫との旅行はまさに「生きる意欲」に繋がる楽しみだったのですね。

 ウブドのマーケットで女性陣がアクセサリー、お土産探しに余念ない中、男性陣は手持ち無沙汰にマーケット中庭の広場でボケっとしてたんですが、ひとりの少女が現れたんですね。ちょうどそのときのウチの娘と同じくらいの年齢。身振り手振りで「お金ください」と言ってるのは解る。旧い昭和人の父たちはすぐ追っ払おうとするけど、ボクはその子がなにか必死なことが気になったんですね。
 で、何万ルピアだったか忘れたけどまぁ普通渡す金額ではないお札を握らせたら、その子は目をまんまるにしてそのお札を見つめると、何回も何回もお辞儀をして・・・ 「年寄りたちに見つかるとうるさいから」と言って(日本語だけど)行かせようとしても何回も何回も振り返ってはまたお辞儀をして・・・

 ウチの娘は物欲にかられてアクセサリー漁りをしているときに、この子は生まれた場所が違うだけで、なぜこのような不条理を受け入れなければならないのだろう?




 インドの友人たち… 彼ら彼女らはカースト的には上位なわけだけど、ボクがスラムの子供にお金を与えることには否定的だった。それは一時しのぎにしかならず、問題の根本的な解決にはならないと。地方ではまた事情が違うのかもだけど、コルカタではその気になればビン洗いでも、親方から商品を借りての物売りでも、いくらでも仕事はあると。まぁそれも児童労働だけど、そのように自身を成長させていかないと彼ら彼女らの将来には結びつかないと。異邦人のセンチメンタリズムではなく、その地に生きる人間の考えとして、インド人として真剣にインドの将来を考えるのならばそれが正しいと思う。バリだって社会全体の問題として大きく捉えるならば、日本人観光客がお土産買い漁ったほうが社会全体で廻る経済に貢献するだろう。そしてそれが福祉の充実にも繋がるだろう。


 今年はウチの娘が成人式、ということは彼女たちもハタチくらいになっているわけ。今どうしているのだろう。貧困から抜け出せているだろうか・・・





 「グローバリゼーションは世界を救」わないと思う。貧困をなくせば「金持ち喧嘩せず」で平和になる、というのもまやかしだと思う。まぁ自分の娘に自分の思いを伝えきれなかったところにも忸怩たるものがありますが・・・



 





🎵 うえの善巳フルート塾 2022/12/05

 何か所かでフルートレッスンをしていますが、そのひとつがここ。「うえの善巳フルート塾・是政教室」毎週日曜日 西武多摩川線是政駅徒歩1分、茶房「でこ」内。

 12月になって寒さが身に染みるきょうこのごろ、生徒さんの9割以上がボクよりご年配のシニアであるわがフルート塾、お会いしてのみなさんの第一声は「もう12月ですねぇ…一年が飛ぶように…」はい、まったくです(笑)。

 フルート大国、吹奏楽大国と言われる(言われてない?)ニッポン、シニアのお姉さま方には以前お若かったころにフルートを吹いていて、理由はそれぞれで中断し、時間に少し余裕が出来たきょうこの頃、以前とは違った楽しみ方をしようかと思い立った、という方が結構いらっしゃいます。

 不肖うえの、フルートがかかわるさまざまなフィールドのあちこちに、たぶん人一倍アシ突っ込んだ自負があるので、「個人レッスン」「フルートアンサンブル」はたまた吹奏楽やオーケストラ以外の楽しみかたをご紹介できます。「塾」というと、子どもたちが受験対策に通うところ、受験テクニックの特訓を受けるところのイメージですがそうではなく、「塾」本来の意味である、学校ではないプライベートな「学びの場」を創ろうと思っています。


 みなさんが「やりたいこと」「吹きたい曲」を最優先に組み立てます。「組み立て」というのは、出来にかかわらず自己満足だけで吹くのならべつだん教わることもないか、と思うのですが、クラシックにはクラシックの、ジャズにはジャズの、ポップスにはポップスの、演歌には演歌の「ルール」があります。ルールというと堅苦しいので、「先人たちが大切にしてきたもの」と言ったほうがいいかな。フルートが楽器である以上、合理的な扱い方、吹き方というのがあります。それに、例えばお友達との集まりで「〇〇さんフルート習っているんでしょ。聞かせてよ」となったとき、物怖じせずに吹いて聴かせてあげられれば素敵ですよね。ぶっちゃけ「ひとりで(アカペラで)」サマになる吹き方、というのも存在します。そのへんのモロモロを含めて、「本当に楽しく吹くには」を追いかけていきたいと思っています。

 「ずっと始める機会を逃したきた」初めてシニアも大歓迎。個人差があるのではっきりした数字は出しにくいですが、60代から、でも大丈夫です。日常生活に差し障りなく毎日を送っていらっしゃる方ならば大丈夫です。呼吸を整えて、脳を活性化してより一層の健康を。「とりあえず試してみてから」の方のために、レンタル楽器も用意しています。

 あ、もちろんですがシニア限定ではないですからね(笑)。


 今年の夏、釜山で手に入れた「自由人」キャップ





🎵 The 生 2022/06/07

 もう35年ものお付き合いになる、日本を代表するパントマイミスト、清水きよしさんの舞台音楽を務めるときのセットアップ2022バージョン。2021バージョンとの違いは、シーケンスを入れておくデバイスがノートパソコンからiPhone(機種変更で退役した6s)になりました。

 なぜかというと、「見た目」をコンパクト化したかったから。今回はピアニカを使う演目が含まれていたのでテーブル出してますが、そうでなければ客席から見える音響機材は一式を仕込んだ「フーテンの寅さんトランク」と、マイク・iPhone用の2本のスタンドだけで済むから。
 もうひとつは、ノーパソだと操作している手元は客席からはよく見えないですが、スタンドに立てたiPhoneだと丸見えなんで、あえて「そこで操作している」を見せるためでもあります。

 これは昨年のノーパソ時代なのでPCを載せたテーブルが写っていますが、これがiPhone+スタンドに置き換わったわけですね。このトランクってのはアンプその他を生々しく見せたくないからで、足元のペダルやケーブルなどのいかんともしがたいモノが多少残りますが、「電気」や「スピーカー」的なものは極力見せないように、とのこだわりなんです。「見せたいもの」と「見せたくないもの」の仕分けですね。

 そもそも大した音圧では鳴らさないので、マイク1本立てておけばあとは会場側の音響システムに送ればいいんでね?となりますが、ここにもう一つの大きなこだわり、「バーチャル拒否」があるのですね。

 ホールでもライブハウスでも、映画館でも、スピーカーは両ソデにありますよね。映画館のマルチチャンネルでセンタースピーカーがあったとしてもプロセニアムに仕込んである。ド真ん中にあったらジャマだからね。つまりステレオにしてもマルチchにしても、スピーカーのないところに音像が定位するようになってるわけですね。


 あれキライなの。「バーチャル」っていうと聞こえいいけど、「ウソ」だろ、って。ヘンクツですねーイマドキ誰もそんなこと言いませんよね(笑)。


 「生の」舞台、「生の」音楽。「生」の定義ってなんだ?音楽の場合、クラシック系、無農薬農法信奉系のひとたちは「マイク通したら生音じゃないだろ」って言いかねませんが、コンサートじゃないからね。多目的ホールが会場だったとしても、照明吊りますから反響板はゼンブとばしてます。日頃腹筋鍛えてますから音量には自信ありますが、だからと言ってノーマイク(ノーリバーブ)でバリバリ吹いたらそれはガサツなだけ。かといって会場の音響システムに依存してバーチャルな音になるのも嫌なわけです。

 そこまでワガママ言うんだったらそう、ゼンブ自分でやるしかない。トランクに仕込んであるスピーカーからシーケンスとフルートをミックスしたものが点音源的に鳴るようにセットアップするわけです。「会場まんべんなく」なんぞには鳴らさない。「そこで鳴ってるように」聴こえるべく。そして、フィックスの「曲」部分もありますが8割方は即興の、その日その時だけのプレイ。2ステージあったら吹く音は違います。それが「生」だと思うからです。




 まぁお客様にはそのへんの苦労を説明する必要もないし、ひょっとしたら全くムダなこだわりか?とも思うんですが、先日の舞台で「そこで鳴ってる感が素敵でした」と言ってくださった方がいたので、無駄じゃなかったんだ、と(涙)。「見せる手元」のほうも、打ち上げでスタッフのひとりのオジさんが「あれはどういう仕組みなんですか?」とシツコク(笑)食い下がってきたから、してやったり、と。そこで鳴ってる、そこに生きてる、それが俺の考える「生」。






🎵 森の演劇祭雑感 2017/11/13


 11/2〜5、島根県松江で開催された「森の演劇祭」に、もう30年来のお付き合いであるパントマイム・清水きよしさんの音楽担当として参加してきました。

 「森の演劇祭」は3年にいちど開催される国際フェスティバルで、普段は静かなところであろう松江市郊外の山中(?)4会場を使って催される本格的なイベントです… って、僕も今回初めて知ったのですが。


 行ってみてびっくり。松江市・八雲町の行政や地元の企業、それに多数のボランティアが一体になっての、素晴らしいイベントです。バブル期、そしてそのあと少しの間は「タダのお祭り騒ぎ」的なイベントは各地にありましたが、なんとかミクスの波及効果なんぞゼンゼンない現状、これだけクォリティの高いイベントが地方で行われていることはオドロキでした。文化的な分野ではいまは地方が元気な時代、の感がありますが、20年の年月をかけてこの演劇祭をここまで創りあげたプロデューサー、園山土筆さんの手腕は敬服に値すると思います。


スイスから参加したアクロバティックなクラウンマイム「Pss Pss(ぷすぷす)」のメンバー



沖縄の伝統に溢れるミュージカル、「沖縄燦燦」のメンバー



 久々に舞台観まくりました。ほかにも国内の「劇団あしぶえ」の「セロ弾きのゴーシュ」や「人形劇団むすび座」の「父と暮らせば」など。
 あらためて「セロ弾きのゴーシュ」を観て、宮沢賢治は一言も「音楽療法」とは言っていないけど、これはまさに音楽療法の話しだったんだ、と思った次第。音楽を通して、森の動物たち、それにゴーシュ自身や金星楽団の面々も進歩し、癒され、人は(動物も?)パンのみで生きるにあらず、文化と触れ合う喜びを感じるのだ、ということを賢治は表現したかったのだろうな、と再確認しました。実際に自身でチェロを嗜んだ、という宮沢賢治、本当に音楽が好きだったんですね。


 貴重な4日間でした。





🎵 不思議 2017/09/10



ミラノの街中で道に迷った親子
(もう10年以上前ですね…)


 この仕事をそこそこ長くやってると、ときどき不思議なことに遭遇する。


 いまではすっかりフツーのポケピン中学生であるウチの娘。彼女がまだ4歳だったころ、イタリアでのお仕事に連れていったのですね。で、その日程のなか、今日はローマ郊外の老人ホームを訪問してミニコンサート、という日の朝、合唱団の指揮者の先生が突然、


 「うえのさん、ちょっと時間余るんで、りんちゃんによさこい踊ってもらえないかなぁ?」


 とおっしゃった。


 娘はそのころ、保育園での運動会のプログラム、「よさこい踊り」を練習していて、たしかに老人ホーム慰問とかではコドモの余興は喜ばれるんで、でもなぁ余興とはいえ音楽会ブチ壊しにならないかとも思いつつ、一応本人に訊いてみると、


 「りんこちゃん、やる!」


 で、老人ホームまでのバスの車中、遠足バスでの不良の指定席である5席並びの最後列で、ヤツはバチの代わりに割り箸を手にして踊りの最初から終わりまでの手順を確認したのち、


 「りんこちゃん、おっけ」


 と言いくさった。


 僕はそれを聞いて唖然とした。なぜって僕も本番前、その日の曲の手順を脳内シュミレーションして、「おっけ」と思えてから舞台に向かいますが、それは長年、舞台やってて身につけたスキルであって、はっきり言って20代のころとかには解っていなかった。

 とうてい4歳児ができることではないと思うんですが…


 でも安心したことに(?)、今の娘の行動を見ていると、先のこと、それに周囲の空気が読めないことおびただしく、そのスキルは消え去ったようです。ではあのとき、確かに彼女がとったあの行動はなんだったのか?


 今日出会った不思議は、世田谷の教室でのレッスン。もう10年以上通ってきているお嬢さんですが、彼女は好みはっきりしていて、クラシックのレパートリーみたいな堅苦しいのは嫌い。アドリブで自由に吹くのは好きだけどメンドくさい理論的なお勉強は嫌い。でもいちばん大事なのは本人がキブンよく吹けることなんで、曲は僕が選んでジャズありポップスありラテンあり、で、うるさいこと言わずに好き勝手に吹かせてたら、ある頃から結構サマになってきた。


 彼女、結構器用な性格なんだとも思うが、モノゴトの伝承って、本来こういうものなのだと思う。正反対に、いくら理論をマスターしてもいっこうにアドリブらしくならない生徒はたくさんいる。理論書とか、フレーズ集とか、もしかしたら五線譜も、進化という名の「便利なもの」が登場して本質が見えなくなっているようにも思う。


 でもね、今日吹かせてたら、倍テンで吹くべきラテンだったのですが、「それらしい」だけでなく、あきらかにラテンアドリブの伝統的なフレーズが混じっているのですね。彼女、「メンドくさいことは嫌い」な性格なんで、決してウチで資料を聴きこんで「お勉強」したりはしない。だいたい自分が吹く以外にはCD聴いたりもしない。念のため本人にも確かめたから間違いない。ではときどきチラつく「伝統的フレーズ」はなんだ?


 僕は教えてない。僕自身の場合は、そのテは「お勉強」して身につけた。だから、「エグエスがよく使ってた、マラカもときどき使う」的な説明が出来る。でも彼女、エグエスも、マラカの名前も知らないだろう。


 
 感覚的な把握であっても、何らかの「最適解」を追っていくと似たようなところに着くのか?あるいは… もしかして… ハッピーでフレンドリーなキューバ人の気質を考えるとアリえそうなんだが、リチャード・エグエスの霊が彼女に向かって微笑んでいる?(エグエスにはお会いしたことないので、実際の人物像はわかりませんが)… 4歳頃のウチの娘のように、「霊界通信」出来る能力があるのか?はたまた量子力学で説明出来るのか?

 そして、幼いころにはみんなが持っている能力を、「教育」という名の洗脳を受けたのちにも保ち続けられるのが、「天才」と呼ばれる人々なのだろうか?



 いやあ不思議なことってあるもんですね。





🎵 ていねいな仕事 2015/05/23   



ブーランジェリー ボンヌ・ジュルネの看板奥様


 パンとかお米って毎日食べるものじゃない?それが美味しいととっても幸せな気持ちになれるよね。


 このところ、とっても気に入っているパン屋さん。横浜の瀬谷区にあるちいさなパン屋さんなのだけど、ここのパンがハンパなく美味い。どういうふうにかって言うとですね…


 このお店はクロワッサンが一番人気で、もちろんこれも最高のクロワッサンで、「瀬谷の逸品」に認定されてる。でも俺の一番のお気に入りはバゲット。外側のクラストは実に香ばしく、内側はしっとりだが小麦の風味がしっかりしていて、ニッポンでフツーの軟弱なフランスパンより少し硬めのしっかりした焼き上がり。噛めば噛むほど旨みが口に広がる。これとハム、チーズだけあれば(僕は下戸なんでワインは不要)立派な食事で、値段もけっして高くない。

 フランス海外領土のニューカレドニアバゲットがとても美味かったことを思い出す。ここのバゲットも値段が安く、つまり庶民の日常のひとつだ。全体的に物価が高いニューカレドニアのこと、なにか訳(税率が違うとか、政治的な何かか)があるとは思うんだが…



 豊かになった現代のニッポン、お金さえ出せば美味しいものはナンボでもあります。でもそういうんじゃなく、毎日の生活の中にあるフツーのものが素晴らしい、それが豊かさなんだと思います。てか俺はそう思うんで、自分自身もなるべく日常の中の、手の届く目の前に生きた音楽を提供したいと思っています。


 オジさんこのトシになると恥じらいナイんで、自分がわからないことはスグに訊くから、トーゼンこのパン屋さんのご主人にも「どうしたらこんなに美味しいパンが焼けるんですか?」って訊いたことがある。そしたら一言、


「丁寧に作っているだけです」


 と言われて、結構オドロイタ。いや、丁寧に作ってないと思っていたわけではもちろんなく、同じセリフをその前に2回も聞いていたからだ。


 ひとりはウチの近くにあるラーメン屋のご主人。いずれ改めてご紹介しますがここのラーメンもハンパなく美味い。そしてそれがコケおどしでない証拠は、毎日でも食べたいラーメンなのだ。インパクト重視系は一口めはいいが、完食するころにはモウケッコウになるからね。もうひとりは俺の昭和ポンコツバイクをメンテナンスしてもらっている、調布市下石原のモトショップ・ダブルフットのご主人だ。33歳にもなる俺のGSが普段使い出来るのはひとえにこのひとのおかげなんだが、この2人がまるで打ち合わせでもしたかのように同じセリフを吐いたのだ。


 アリガチな、勘違いした精神論のように「技術は足りなくても気持ちで補う」ていう訳じゃない。それこそラーメン屋でままあるように「一生懸命営業中!!」なんてことを店の入口にデカデカと書いたりしない。プロが一生懸命仕事するのはアタリマエ、3人とも確実な技術を持つ、俺が本当に尊敬するその道のプロだ。でもどれだけ技術と経験に長けても、結局、いちばん大切なことはどれだけ「丁寧に仕事する」か、なのだと改めて思った次第。


 そして面白いことにこの3人に共通していることが、3人とも「一匹狼」だということだ。パン屋さんとラーメン屋さんはお店を奥様が手伝ってはいるが、「作る」ことに関しては一人でやる。ダブルフットは従業員なし。そして頑固者(皆様ごめんなさい)であることも共通している。


 バゲット、食べてみたくなったでしょう?お店の場所はここです。


ブーランジェリー ボンヌ・ジュルネ



横浜市瀬谷区阿久和西4-4-10 TEL045-391-8033 
 9:00〜18:00  日曜・月曜定休























 


































































m(_ _)m