さすらいのフルーティストのブログ


 うえの 善巳 (よしみ)


フルーティスト、キーボーディスト、作・編曲 
ノージャンル
一応、桐朋行きましたが、かなりフリースタイルなフルートなので、普通の優雅なフルートを期待しないでくださいね。

普通のブログ形式での書き方ではないので読みにくいかもですが、記事の新しい順に並んでいます。



2020/03/24更新




🎵 百里を行く者は 2020/03/24


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 「転んでも タダでは起きない コロナ休業」



 年末、日常よりは時間があった時に手を付けて3か月。頭部管108歳、胴体還暦のヘインズ-メナート(ネーミングの慣習に従えばメナート-ヘインズか?)ともお互いだいぶ馴染んできました。で、相手の欲求がだいたい解ったところで共同作業のためのさらなるすり合わせを模索すべく、ほーんのちょっとピッチが低い点の改善に着手することに。スタジオだと441Hzが多いのでなんとかなるが、442で吹こうとすると常にすこーしピッチ上げの操作を続けなければならないのですね。ニンゲン甘やかされるとダメになるんで、逆にこれがあまりにないと腹筋まわりがサボり気味になってかえってヨロシクないことになるんだが、常に緊張を強いられるのも余裕がなくなってミスを誘うことになりかねないわけですね。

 ルイ・ロットなどのオールドを愛好するひとたちは、オールドに魅せられたものの宿命として、「高めに吹ける」奏法を受け入れているわけですが、どのような楽器でもスイートスポットジャストが一番いい響き・ねいろが出るわけで、弊害なく(ここがなかなか難しいんですが)楽器のほうでピッチを上げられるならばそうしたい。


 まずはヘッドコルク位置を詰めて強引に左手部分だけのピッチupを試すも、ピッチ以前に響きがゼンゼン変わってしまって断念。彼女の魅力は、かなりのハイバランスから来ているようです。

 仔細に観察してみると頭部管のエンドリングに1mmほど削れる余地がありそうな… で、最終手段として、失敗したら文化遺産を破壊することになるかも、の恐怖と戦いつつ、清水の舞台から跳び下りる思いでおもいきって削りました。


 結果は上々(*^^)v  




 「上がりバイク」みたいなのってあると思う。いろいろなバイクを乗り継いで最後にたどり着くバイク。たぶんスーパーカブなんだろう。でも「上がりフルート」てあるのかな? 











🎵 十徳ナイフ 2019/12/29


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 個人差はあると思いますが、みんな自分の楽器には「思い入れ」がある。そして、「これ一本で何でも吹けたら」と夢想する・・・ と思う。

 年末年始、さすがに少し時間にゆとりがあると、普段あまり吹かずにしまい込んでいる楽器たちを改めて吹いてみたくなる。そしてそのたびに新しい発見がある。



 「木の音」に魅せられた者は、金属管のフルートに替えて、これでなんでも吹いてみたい、と思う。へそまがりうえの言うに及ばず。だって音色、響きが金属管とゼンゼン違うんだから、これでジャズ(演歌でもストリートでもなんでもいいんですが)吹いたら他人(ひと)と違うじゃん、と。

 で、いろいろ吹いてみるんですが、そのうちどツボにはまる。木の楽器、金属管に比べて不得意なところがあるわけですね。まぁ銀同士、金同士でも個性の違いはあるんだけど。で、理想の木管フルートを求めて木管フルート行脚の旅に出ることになる。

 木製ベームフルートというのは、1800年代後半から20世紀初頭にかけては割合フツーにあったんでまぁリバイバルとも言えるんですが、メーカーのほうもリバイバルするにあたって木製特有の弱点をカヴァーすべく、さまざまなアプローチしています。100年前とは楽器に求める性能も違ってきていますから。ムカシなら無理なくらい薄く作ってみたり、トーンホールが崩れないように樹脂埋めてみたり、音量かせぐためにチムニーに金を埋め込んでみたり・・・

 そういう楽器を吹いてみると、確かに最初は「おおっ!」て思います。「金属管と同じように吹けるじゃん!」って。でも実はこの「同じように」がクセモノなんですね。少し慣れてくると「木の響き」が薄いのに気づく。「金属管と同じ」なのは響きもじゃん、と。木管の音色・響きそのままに「同じように吹ける」んだったらいいんですが・・・ 金属管的な表現力、吹きやすさと引き換えに「木っぽさ」を若干差し出している。何かと何かを「引き換えている」訳ですね。そもそもこの時点で矛盾があるのは、例えば銀の楽器だって楽器によってさまざま音色・響きの違いがあるわけで、はたして「木」に固執することが意味あるのか、と。そして、「オマエは木の音と引き換えに金属管の表現力を捨てる覚悟があるのか?」と問われるわけですね。一本ですべてをカヴァー、は結局十徳ナイフみたいなもんで、すべてが中途半端になる、と。



 本当に「木の魅力」を持っている楽器は、決して銀の楽器と同じには吹けないです。そりゃそうだ。先人の仕事をリスペクトするならば、そもそも木製の弱点をカヴァーするべく金属管になったんだから。木管がフツーだった時代に登場した、薄管の軽い銀管フルートのねいろがドビュッシーや20世紀初頭フランスの作曲家のイマジネーションを刺激して、楽器・楽曲影響しあって進歩したんだから。いくら近代のエッセンスを注入したとしてもそれ以前の音色感で「なんでも」・・・ ドビュッシーも吹きたい、てのがそもそも歴史無視。それに楽器がひとりで鳴ってくれるわけではなく、吹き手と一緒になって音作っているんだから、同じように吹いたら究極は同じようになってしまうわけですね。「木の吹きかた」しないといけないような楽器じゃないと求めている音は出ない。すると、最初の「これでなんでも」はやっぱり夢物語だった、と気づくわけです。「木の吹きかた」最優先に考えないといけないわけですから。


 もちろんピアニストとかは会場のピアノを四の五の言わずに弾いて「自分の音」をださなければならない訳で、自身のテクニックを開発することは必須なわけですが、「やっぱり木の音タップリしないと意味がない」にたどり着き、そのためには木のフルートは「オールマイティ」はある程度あきらめなければならない、の結論となりました。今のところ。「昭和は良かった」の懐古主義者ながら、「進歩は夢の実現」の20世紀人でもありますから、ひょっとしたらテクノロジーの進歩で夢が実現するかも、の夢想捨てきれず、セバスチャン・ジャコーが吹いている現代木管ヘインズに興味深々だったり、もまだあるけど、ジャコーも曲によっては頭部管を金に取り換えたりしてるから、やっぱりオールマイティーじゃないんだろうな・・・
 そもそもうえの、「何でも屋」を自負する十徳プレイヤーなわけですから、常に「木の吹きかた」最優先に、「キミの魅力の前ではボクは下僕になるよ」はムリ。





 で、年末のお楽しみの結果のほうはというと、1912年製造のヘインズ木製頭部管と、フランツ・メナート制作のボディ(1960年代)の組み合わせが「木の音」(正確にはオールド木管ヘインズの音)タップリ、を発見して、ニンマリしています。1900年ころのヘインズ木管は音色は素晴らしいのですが、そのままではピッチやダイナミクスの点がゼンゼン現代の要求に合わないので実用はキビしい。これなら十徳ナイフなみはムリですが、かなり楽しめます。












🎵 老人特性(笑) 2019/12/26


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 高齢化社会だから当然なのか、偶然なのかはわかりませんが、もうここ10年以上、プライベートの生徒さんはシニアばかり。あ、ひとりだけ20代の乙女が平均年齢押し下げてくれていますが・・・

 おかげさまで、おぼろげながらシニアに共通する症状が見えてきました(笑)。こちらももう若くはないオトシゴロですから、自身のテクニックを維持、発展させるためにはたいへん参考になります。自分の弱点を知ることがモノゴトの第一歩だからね(笑)。


 最近、「無意識」というキィワードに凝っているんですが、日常のなかで「意識」(顕在意識)と「無意識」はさまざまに、バランスを取りながら協調していると感じます。テンポがゆっくりで、白玉・四分音符オンリーの曲ならば「顕在意識」オンリーで吹け(弾け)ます。なので初見でも問題ない。ですが十六分音符フレーズの連続などはあらかじめ「無意識」の記憶に入れておく(手続き記憶化しておく)必要があるんじゃないかと。ムカシからセンセーがた、「難しいフレーズは止まらずにに吹けるゆっくりから徐々にテンポを上げて」と言っていたのはこの作業なわけですね。

 プロはたとえ初見だったとしてもある程度細かいフレーズがスグ吹けるのは、えんえんとやらされた(そして今は自身の意志でやってる)スケールやアルペジオが「手続き記憶化」されていて、それを組み合わせて使っているからなわけですね。パーツは無意識下、組み合わせの采配をふるっているのは顕在意識。だから折り返すスケールなどは「折り返し点」の把握が重要なわけですね。

 ジャズではいわゆる「ジャズフレーズ」的定型文を「無意識記憶」化しておく必要があります。通称「手癖」。その蓄積がないとアドリブにはならない。まぁ他人のアドリブコーラスを「まる憶え」して再生する手もありますが、それってイマイチ、吹いてる本人が楽しくない。要するにそれではクラシックの楽曲を暗譜で吹いてるのと同じ脳のはたらき状態で、脳味噌フル回転させてアドリブひねり出すスリルがないんですね。ジャズ屋に糖尿と破滅型人格が多いのはこのせいなんじゃ?と僕は踏んでるんですが(笑)。






 で、シニア。人生120年を「健康に」送るためには、そりゃ健康管理も重要ですが、「顕在意識と無意識記憶のバランスとりなおし」を常にこころがけることが重要なんじゃ、と思っています。お医者さんには「シロートがなーにエラソーなことを」と言われかねませんが、ン10年、音楽を通してシニアを観察してきて、の感想です。「何十年住んでる自宅の階段である日突然つまずくでしょ?無意識下でアタマが出してる『足をこのくらい上げて』の信号に応える足のほうが性能落ちてるんで、顕在意識で『もっと足あげろ』って信号出さないと」って言います。

 「吹く(弾く)べきタイミングから遅れる」もよくある事態ですが、アウフタクトなどは逆にほとんどフライングして出てきます。シニアものごとすべてが若いころに比べると遅くしか出来ない自覚があるので、無意識にはやめはやめに信号だす補正をしている・・・ように見えるのですが、これがほとんど「無意識下」なので、たまさか「クスリが効きすぎて」フライングもするようなのですね。

 自身で「吹く(弾く)べきテンポ」がしっかり認識できれば、クスリの加減を自分で調節出来るので、「テンポをしっかり感じるように」のアドヴァイスは有効なんですが、「他人(若者)のペースにはついていけない」の自覚もあるので、メトロノームとかはまるで親のカタキのように敵視する傾向があるのも悩みのタネ。




 それらこれら、「明日は我が身」の精神で楽しみながらいろいろと方策を考えています。










🎵 同じニオイ 2019/11/25


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 だいぶ更新をサボりましたm(_ _)m


 木琴の小山理恵さんが主宰するバンド、きつねのトンプソンにお誘いいただいて、「ピーターと狼」バンド版プロジェクト(?)に参加することになりました。

 ご存じプロコフィエフの音楽物語「ピーターと狼」ですが、名作なだけにさまざまなアーティストがいろんなアプローチをしています。オリジナルのオーケストラ+朗読のスタイルではないチャレンジもさまざま。今回「きつねのトンプソン」では木琴・ベース・バンジョー・ドラム・フルートと「語り」(・・・浪曲?形態模写かも)で創ろうというプランなのですね。

 詳細は聴いていただいてのお楽しみにするとして、何が「同じニオイ」か?というと・・・ それは木琴のりえさんが、なのですね(向こうはそうは思っていないかも知れませんが・・・)。木琴て、まぁ子どもの玩具的なのもありますが、本来は「シロフォン」としてオーケストラのなかのパーカッションとしての一員なわけですが、りえさんはそのキャラクターから、「型にはまった」ことは「好きじゃない」のですね。「自分が表現したいこと」の実現が最優先。あ、ご本人の名誉のために書いておくと、「出来ない」のではなくて「好きじゃない」のようです。そのへんが「同じ」、正確には「似たニオイ」の元かと。

 今回は、「きつねのトンプソン」版ではありますが「アリモノ」(既成の作品)ですが、本来、曲からオリジナルであるほうが「りえワールド」が存分に発揮されることは言うまでもありません。そのブッ飛んだ世界(失礼!)は、間違いなく唯一無二のものです。そのへんは、同じ方向を指向してるな、と思いつつも、「オジさんまだまだだな」と思うところでもあります。オジさんもっとブッ飛ばないと。

 ほかにも「同じニオイ」を感じることがらはいろいろあるのですが、意味不明傾向に行きそうなので省きます。「きつねのトンプソン」のドラムはりえさんの夫君であるよしじまともひとさんですが、この人も「似たニオイ」がする人であることは言うまでもありません。そうじゃなきゃ一緒に暮らせるわけがない(さらに失礼!!)

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 ナショナルジオグラフィックチャンネルの「フリーソロ」というドキュメンタリーを観ました。スポーツ、競技であるボルダリングとはことなり、フリークライミング、それも安全確保のためのロープを使わない「フリーソロ」というスタイル。ヨセミテ国立公園にある巨岩、エル・キャピタンに挑むアレックス・オノルドの姿を淡々と追うのだが、アレックスの生い立ちや、心理描写も描いていてなかなか興味深かった。本番の、ノーロープでのチャレンジの前に、何年もかけての、ロープで確保をしたうえでの準備がある。そのなかでは、ルートや具体的なテクニックの準備のほかに、精神的な準備をしていかなければならない。本番は完璧でなければならない。ほんの些細なミスでも、それは死を意味するわけです。

 アレックスは幼少期から決して社交的な性格ではなく、自身の内面の深層と対話するタイプ。なにげなくつけていた画面に引き込まれたのは、彼の風貌がアイルトン・セナに似ているのですね。

 どちらかと言えば寡黙で、やはり内に向かう思考だったアイルトン。その、神に呼び戻されたとしか思えない最後を思い出すと、アレックスの姿にダブって見えてくる。ドキュメンタリーとして放映されているのだから最後は成功するのだろうと解っていても、モンツァの映像をリアルタイムで観た世代としては、ハラハラさせられたことは確かです。




 命の危険はないけれど、僕たちが日頃、「自分が進む道」や本番に向けての準備をするとき、同じようなことを考えます。孤独な作業ですが、一匹狼の僕はなおさらです。なので、アレックスにもなんとなく同じニオイを感じるのです。世界は違っていても、共通する部分はたくさんあるなぁと思います。もちろんそれとは違うアプローチもあるわけですが。













🎵 ビルマの竪琴 2019/08/15


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 小学生たちは、いまでも「夏休み課題図書」ってあるのかな?その課題図書で読んだ(読まされた)のかどうかまでは覚えてないんですが、僕の「読書」の原風景(座右の銘とはちょっとちがう)は「ビルマの竪琴」と「二十四の瞳」なんです。


 「ビルマの竪琴」は竹山道雄先生が、戦死した教え子を悼んで、反戦や、近代文明批判を織り込んだ児童文学として書かれたそうです。自分が子供の頃に読んだ時の印象では、例えば「歌う部隊」。他で読んだ日本陸軍の雰囲気や、「戦場」という緊迫した場でそんなことあるんかい?というものでしたが、それは子供の感覚。「ビルマの竪琴」は当時的にリアルな設定でのフィクションであり、音楽にも造詣が深かった竹山先生は、「歌う部隊」や、ジャングルの中での戦闘シーンで、「埴生の宿」で敵味方が通じあう風景を描きたかったわけですね。

 竹山先生は、「音楽が持つ力」を信じていらしたのだと思います。

 ところが、「ビルマの竪琴」を執筆された当時、竹山先生はビルマ(現ミャンマー)を、ご自身で訪れたことはなかったのだそうです。水島上等兵にはモデルとなった人物が存在すると言われ、その方が所属していた部隊の他の方から聞いたエピソードで組み立てられているとのことなのですが、そこに描かれているビルマの風景はとても印象深く、いちど訪れてみたいと思っていたのです。当時から70年経っているわけですが。


 ミャンマーはご存じのように、軍政の時代が長く、そのせいで近隣国よりも経済発展が遅れました。でもそれは、旧い風景が残っているということでもあります。道行く人々の、男性の服の9割がたは伝統のロンジー。だいたいが、ヤンゴンの市街地でも、行きかう人々はえらくノンビリしています。


 「ビルマの竪琴」で描かれる音楽はミャンマーの音楽ではなく、実際ミャンマーの僧侶は戒律で音楽は禁じられているそうなのですが、ミャンマーの人々の暮らしを垣間見ることが出来た、貴重な時間でした。


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 列車が着くたびに(車両は日本の対外援助、キハ40です)線路のうえをワラワラと人々が歩いてきます。ホテルのおねえさんに「どうして線路をあるいているのかなぁ?」と訊いたら、「外の道を歩くより近いからですがそれがなにか?」と言われました。


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 ミャンマーの伝統的な男性服、ロンジー。上がTシャツなら普段着、半そでYシャツにすればフォーマルな場でもOK。
アジア各都市に比べてヤンゴンにバイクがえらく少ないのはこの服のせいだと思う。




 きのう、クルマの中でラジオ聴いてたら、「ペリリュー 楽園のゲルニカ」の著者・武田一義さんが、「子どもたちに戦争の悲惨さを伝えようとしても、過激な表現は拒否されてしまう」とおっしゃっていた。でもね、映画もいいんですが、いまの子どもたちにもぜひ、「ビルマの竪琴」と「二十四の瞳」は本を読んでもらいたいと思います。そのことが、彼ら彼女たちが「平和とはなにか?」「幸福とはなにか?」を考える取っ掛かりになってほしい。終戦記念日の今日、そんなことを思います。














🎵 先生 2019/06/11


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(画像はウチのとっぽではありません)


 ヨーロッパの人々にとって、「黒つぐみ」は特別な鳥なんでしょうか?モーツァルトは黒つぐみを「僕の先生」と言ったという。メシアンにも「黒つぐみ」というフルート作品がある。ビートルズにだって… ビートルズの「ブラックバード」の歌詞は「黒つぐみ」のことを歌ったものではないけれど。


 日本人にとって、春先は野鳥たちと親しむ季節ですよね。南白の「けやきっず」部屋の前の軒先には、毎年やってくるつばめの巣があって、警備員のおじさんは3月ころから「まだかな?まだかな?」って楽しみに待ってた。


 「KAMEN」の前日だったから、もう3週間まえ。わが14号棟わきの藪に「トッポジジョ」がやって来た。



 ねずみじゃあありません。たぶん今年はじめて囀る若いウグイス。こいつが「ホーホケキョ」じゃなくて「トッポジジョ」って鳴くんです。で、彼の名前も「トッポジジョ」(かってに命名するなって?)

 むかし、ジムニー手に入れて丹沢や奥多摩の山の中を遊びまわっていたころ、若いウグイスが「お手本」を真似て囀りが上達していく一部始終を聴いて、いたく感動した。やっぱり「お手本を真似る」は芸事上達のための基本なんだな、と。(もちろん彼らは芸事なんぞのようなお遊びで囀っているわけじゃありませんが)

 ウグイスが囀るのはなわばりを主張するため。彼らは必ずしも深い野山だけに生息するのではなく、繁殖期以外は意外に人里近くにひっそりと暮らしていたりするそうですが、さすがに団地をなわばりにするやつはあまりいないなぁ。なので3週間まえから彼一羽。「お手本」がないせいなのか、ずーっと「トッポジジョ」のまま。





 でもいい声です。ボリュームも遠達力もあって、しかもこんだけ心を和ませて、と僕のお手本です。












🎵 パントマイムの音楽 2019/05/24


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 日本を代表するパントマイミスト、清水きよしさんの「KAMEN」。さまざまな不条理を、能面を用いた6本のオムニバスで描く。もう30年以上、この「KAMEN」の音楽を担当させていただいている。


 僕が清水きよしさんの作品に音楽をつけるときにまず考えるのは「ミニマムに」ということ。終演後にお客様から、「もっと聴きたかった」と言っていただくとニンマリする。基本は僕が、少々の小道具だけで成立させるソロパントマイムに、主張の強い音は添えたくない、というところから来ている。なので、この作品の音楽はあらかじめ「作曲」(モチーフ程度ですが)してある部分と即興の部分を組み合わせるのですが、どちらも「憶えられない」ように音を配置するように考えているのです。


 普通作曲家は「お客さんの印象に残る」メロディを作ろうとするもんだが、その真逆をいこう、ってわけです。へそまがりですねぇー。


 清水さんとご一緒するようになった頃、照明家の辻本晴彦さん(故人)ともご一緒することが多かったのですが、まだ駆け出しの笛吹きだった僕のことを辻本さんはとてもかわいがってくださって、舞台、そのほかの芸術的な感覚に必要な事柄をいろいろ教わったのでした。その辻本さんがポリシーとされていたことのひとつが「印象に残らない明かりをつくる」ことだったのです。照明は舞台上の芝居・音楽を「生かす」ためのもの。照明自体が自己主張してはいけないのだと。

 パントマイムはあえて「制約」を自らに課すことによって表現する芸術です。セリフはない、大道具もない、暗転もない。清水さんご自身も、音楽に「助けてもらおう」などとはチラとも思っていない。なので、そこに添える音楽は極力シンプルに、と僕は考えます。

 ですが、音楽を使うとしてもまぁ普通は録音のソロパントマイムで、ライブの演奏家が同じ舞台上にいる、ということを生かさなければそこにいる意味がありません。

 舞台が「生き物」であるのと同じように、音楽も生きていなければ意味がない。なのでその場の空気に即応出来る即興演奏は重要な意味を持つのです。






 画像は「KAMEN」中の一話、「駝鳥」のワンシーンですが…

「先輩を先輩とも思わず」傍若無人好き勝手なヤツと思われているワタクシですが、この「駝鳥」の冒頭で駝鳥が遠くからかすかに呼ばれたような気がして振り返る、そこのモチーフにはリスペクトを込めて、ジョン・ウイリアムズの「未知との遭遇」のモチーフを借用しています。宇宙との交信を象徴している、D-E-C-C-Gってやつですね。ウイリアムズとスピルバーグは「5音で」という制約を課して、その組み合わせを死ぬほど考えたそうです。これの前半を移調してC-D-Bb。これを「呼ばれる」ことのモチーフにしています。

 パントマイムのお客さんは当然パントマイム・ファン。でも僕はもうちょっと「音楽ファン」も来ねえか?と思っているのです。フルートファンでもうえのファン(いねえか?)でもいいんだけど。コンチェルトやフランス近代作品だけがフルートソロじゃない。告知も行き届いていないとは思うのですが、守備範囲広い音楽ファンって少ない。たまには「音楽」が他の芸術、ひいては他の「世界」とどう繋がるのか、考えてみたら?と思うのです。誰か「あの駝鳥って、未知との遭遇ですよね?」って言ってくれないかな?



 8月にも都内での再演があるようなので、バックヤードネタを小出しして興味もってもらおう、という魂胆なのです。















🎵 幸が森コンサート 2019/05/20


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 もう10年近く前。当時娘が通っていた小学校の校長先生に、「うえのさん、東京は外に行ってお金を出せばなんでもあるけれど、私は子どもたちの体育館で、目の前で音楽を聴く時間を作りたいんです」と頼まれて始めたのが「幸が森コンサート」。


 「目の前に」ホンモノを出すべく、毎年趣向を凝らして、歌のおねえさんに来てもらったり、フルート+ピアノ+ベースのジャズトリオにしたり。そういえばジャズピアニストの〇〇〇くんはなかなか来ないと思ったら校門で警備員さんにつかまってたっけ(笑)。



 今年は、僕が10年以上前に参加していたバンド、「カフカフドゴシコ」に来てもらいました。「カフカフドゴシコのリズム探偵団」。彼らの活動の大きな柱のひとつが、全国の小学校での学校公演。ずいぶんあちこちに行きました。
 広島に長期滞在(?)したときは広島お好み焼きをハシゴして食べ歩きしたっけ…

 ひとところに長居出来ない僕は数年参加して辞めたのですが、彼らはその後も(その前から)、今に至るまで30年以上ずっと、同じスタイルを貫いている。参加していたころは、僕はそもそも群れるのが嫌い、他人に指示されるのが嫌い、ひとと同じことはしたくない、なので「リズム探偵団」のような会場参加型コンサート、「さぁみんなで一緒に!」みたいなのは感覚的にダメで、自己矛盾感じながらやってたわけですが、時代は変わる。今でも小・中学校は基本「みんなで心をひとつに、力をあわせて」で変わってないけど、表面ではコミュニケーションごっこをしながら実は対人不安を、子どもですら多く抱える現代、「リズム探偵団」の意味は重要性を増しているんじゃないかと。



 南白糸台小学校の子どもたち、いわゆる「いい子」傾向が強いと思う。言われたことはやる。たとえカタチだけだったとしても。でも自分で感じ、考えて行動する部分が弱いんじゃないかと。べつに南白に限ったことではないかも知れませんが。



 この子たちがどう反応するか、カフカフ時代にいろいろな小学校を見てきた経験から危惧していた部分もあったのだけど、結果は大成功。画像のようにみんなノリノリでした。まぁ最後は全員ノリノリに持っていくべく、「リズム探偵団」は練られているわけですが。





 こぎつけるまでが大変でしたが、よかったよかった。














🎵 踊ってきました! 2017/12/20


 娘の母校でもある府中市立南白糸台小学校。ここのウインドアンサンブルは伝統ある吹奏楽部で、レヴェルの高い演奏は毎年、教育委員会表彰をいただいている。



 今回、モロモロの事情があって、急遽このウインドアンサブルのコンサートを指揮することになってしまった! ボヘミアンうえの、学校関係はいろいろと面倒くさいことがあるのでなるべく関わらないようにしていたんですが…

 ひと月前から、連日の朝練。僕も楽器組み立てて一緒にロングトーンしてスケール吹いて。いやあ新鮮な朝を過ごしました。



 いろいろな事情があってのこの状況。最初に指揮台に立った時、子供たちの目は不安の色でいっぱいだった。彼女たちはその前、音楽会を目前にしながら満足に練習が出来ない状態が続いていたわけですね。

 で、吹かせてみたらなかなか上手い。そしてみるみるうちに「やっと吹ける!」気持ちがみなぎってきて、音楽室に豊かな響きが満ちてきた。




 僕はそれを聴いていて思った。今の段階では細かいことは置いといて、彼女たち(彼ら、もごく少数いるんですが)をのびのび吹かせてあげることがいちばん大事なこと。大人の事情に振り回されて大好きな音楽を楽しむことが出来ない状況に置かれた彼女たちの、「楽器が吹きたい!」気持ちを最大限サポートしてあげよう、と。

 そして、僕自身が今まで経験してきたこと… 最初は不可能に思えたパッセージも、積み重ねでモノにできることとか、指揮の先生に信頼してもらって、僕のソロになったら指揮棒を止めて好きなように吹かせてくれたこと… それらこれらがどれだけ嬉しかったか、どれだけ感動したか… そんなことをわからなくてもいいから話して聞かせるのではなく、棒を通して表現しよう、と。



 いいコンサートになったと思います。彼女たちが自信を持つことにも繋がったようで、3学期の練習曲には難曲「スターウォーズ」を挙げてきた。よしよし、一緒に頑張ろう。



 3学期いっぱいだけど、君たちのそばにいます。よろしく。
(その後抜けられない状況に…)












🎵 森の演劇祭雑感 2017/11/13


 11/2〜5、島根県松江で開催された「森の演劇祭」に、もう30年来のお付き合いであるパントマイム・清水きよしさんの音楽担当として参加してきました。

 「森の演劇祭」は3年にいちど開催される国際フェスティバルで、普段は静かなところであろう松江市郊外の山中(?)4会場を使って催される本格的なイベントです… って、僕も今回初めて知ったのですが。


 行ってみてびっくり。松江市・八雲町の行政や地元の企業、それに多数のボランティアが一体になっての、素晴らしいイベントです。バブル期、そしてそのあと少しの間は「タダのお祭り騒ぎ」的なイベントは各地にありましたが、なんとかミクスの波及効果なんぞゼンゼンない現状、これだけクォリティの高いイベントが地方で行われていることはオドロキでした。文化的な分野ではいまは地方が元気な時代、の感がありますが、20年の年月をかけてこの演劇祭をここまで創りあげたプロデューサー、園山土筆さんの手腕は敬服に値すると思います。



スイスから参加したアクロバティックなクラウンマイム「Pss Pss(ぷすぷす)」のメンバー




沖縄の伝統に溢れるミュージカル、「沖縄燦燦」のメンバー





 久々に舞台観まくりました。ほかにも国内の「劇団あしぶえ」の「セロ弾きのゴーシュ」や「人形劇団むすび座」の「父と暮らせば」など。
 あらためて「セロ弾きのゴーシュ」を観て、宮沢賢治は一言も「音楽療法」とは言っていないけど、これはまさに音楽療法の話しだったんだ、と思った次第。音楽を通して、森の動物たち、それにゴーシュ自身や金星楽団の面々も進歩し、癒され、人は(動物も?)パンのみで生きるにあらず、文化と触れ合う喜びを感じるのだ、ということを賢治は表現したかったのだろうな、と再確認しました。実際に自身でチェロを嗜んだ、という宮沢賢治、本当に音楽が好きだったんですね。







 貴重な4日間でした。








 






🎵 不思議 2017/09/10



ミラノの街中で道に迷った親子
(もう10年以上前ですね…)




 この仕事をそこそこ長くやってると、ときどき不思議なことに遭遇する。



 いまではすっかりフツーのポケピン中学生であるウチの娘。彼女がまだ4歳だったころ、イタリアでのお仕事に連れていったのですね。で、その日程のなか、今日はローマ郊外の老人ホームを訪問してミニコンサート、という日の朝、合唱団の指揮者の先生が突然、


 「うえのさん、ちょっと時間余るんで、りんちゃんによさこい踊ってもらえないかなぁ?」


 とおっしゃった。


 娘はそのころ、保育園での運動会のプログラム、「よさこい踊り」を練習していて、たしかに老人ホーム慰問とかではコドモの余興は喜ばれるんで、でもなぁ余興とはいえ音楽会ブチ壊しにならないかとも思いつつ、一応本人に訊いてみると、


 「りんこちゃん、やる!」


 で、老人ホームまでのバスの車中、遠足バスでの不良の指定席である5席並びの最後列で、ヤツはバチの代わりに割り箸を手にして踊りの最初から終わりまでの手順を確認したのち、


 「りんこちゃん、おっけ」


 と言いくさった。


 僕はそれを見ていて唖然としたのだが、なぜって僕も本番前、その日の曲の手順を脳内シュミレーションして、「おっけ」と思えてから舞台に向かいますが、それは長年、舞台やってて身につけたスキルであって、はっきり言って20代のころとかには解っていなかった。

 とうてい4歳児ができることではないと思うんですが…


 でも安心したことに(?)、今の娘の行動を見ていると、先のこと、それに周囲の空気が読めないことおびただしく、そのスキルは消え去ったようです。ではあのとき、確かに彼女がとったあの行動はなんだったのか?






 今日出会った不思議は、世田谷の教室でのレッスン。もう10年以上通ってきているお嬢さんですが、彼女は好みはっきりしていて、クラシックのレパートリーみたいな堅苦しいのは嫌い。アドリブで自由に吹くのは好きだけどメンドくさい理論的なお勉強は嫌い。でもいちばん大事なのは本人がキブンよく吹けることなんで、曲は僕が選んでジャズありポップスありラテンあり、で、うるさいこと言わずに好き勝手に吹かせてたら、ある頃から結構サマになってきた。


 彼女、結構器用な性格なんだとも思うが、モノゴトの伝承って、本来こういうものなのだと思う。正反対に、いくら理論をマスターしてもいっこうにアドリブらしくならない生徒はたくさんいる。理論書とか、フレーズ集とか、もしかしたら五線譜も、進化という名の「便利なもの」が登場して本質が見えなくなっているようにも思う。


 でもね、今日吹かせてたら、倍テンで吹くべきラテンだったのですが、「それらしい」だけでなく、あきらかにラテンアドリブの伝統的なフレーズが混じっているのですね。彼女、「メンドくさいことは嫌い」な性格なんで、決してウチで資料を聴きこんで「お勉強」したりはしない。だいたい自分が吹く以外にはCD聴いたりもしない。念のため本人にも確かめたから間違いない。ではときどきチラつく「伝統的フレーズ」はなんだ?


 僕は教えてない。僕自身の場合、そのテは「お勉強」して身につけた。だから、「エグエスがよく使ってた、マラカもときどき使う」的な説明が出来る。でも彼女、エグエスも、マラカの名前も知らないだろう。


 
 感覚的な把握であっても、何らかの「最適解」を追っていくと似たようなところに着くのか?あるいは… もしかして… ハッピーでフレンドリーなキューバ人の気質を考えるとアリえそうなんだが、リチャード・エグエスの霊が彼女に向かって微笑んでいる?(エグエスにはお会いしたことないので、実際の人物像はわかりませんが)… 4歳頃のウチの娘のように、「霊界通信」出来る能力があるのか?はたまた量子力学で説明出来るのか?

 そして、幼いころにはみんなが持っている能力を、「教育」という名の洗脳を受けたのちにも保ち続けられるのが、「天才」と呼ばれる人々なのだろうか?








 いやあ不思議なことってあるもんですね。















🎵 ていねいな仕事 2015/05/23   



ブーランジェリー ボンヌ・ジュルネの看板奥様



 パンとかお米って毎日食べるものじゃない?それが美味しいととっても幸せな気持ちになれるよね。


 このところ、とっても気に入っているパン屋さん。横浜の瀬谷区にあるちいさなパン屋さんなのだけど、ここのパンがハンパなく美味い。どういうふうにかって言うとですね…


 このお店はクロワッサンが一番人気で、もちろんこれも最高のクロワッサンで、「瀬谷の逸品」に認定されてる。でも俺の一番のお気に入りはバゲット。外側のクラストは実に香ばしく、内側はしっとりだが小麦の風味がしっかりしていて、ニッポンでフツーの軟弱なフランスパンより少し硬めのしっかりした焼き上がり。噛めば噛むほど旨みが口に広がる。これとハム、チーズだけあれば(僕は下戸なんでワインは不要)立派な食事で、値段もけっして高くない。

 フランス海外領土のニューカレドニアバゲットがとても美味かったことを思い出す。ここのバゲットも値段が安く、つまり庶民の日常のひとつだ。全体的に物価が高いニューカレドニアのこと、なにか訳(税率が違うとか、政治的な何かか)があるとは思うんだが…



 豊かになった現代のニッポン、お金さえ出せば美味しいものはナンボでもあります。でもそういうんじゃなく、毎日の生活の中にあるフツーのものが素晴らしい、それが豊かさなんだと思います。てか俺はそう思うんで、自分自身もなるべく日常の中の、手の届く目の前に生きた音楽を提供したいと思っています。


 オジさんこのトシになると恥じらいナイんで、自分がわからないことはスグに訊くから、トーゼンこのパン屋さんのご主人にも「どうしたらこんなに美味しいパンが焼けるんですか?」って訊いたことがある。そしたら一言、


「丁寧に作っているだけです」


 と言われて、結構オドロイタ。いや、丁寧に作ってないと思っていたわけではもちろんなく、同じセリフをその前に2回も聞いていたからだ。



 ひとりはウチの近くにあるラーメン屋のご主人。いずれ改めてご紹介しますがここのラーメンもハンパなく美味い。そしてそれがコケおどしでない証拠は、毎日でも食べたいラーメンなのだ。インパクト重視系は一口めはいいが、完食するころにはモウケッコウになるからね。もうひとりは俺の昭和ポンコツバイクをメンテナンスしてもらっている、調布市下石原のモトショップ・ダブルフットのご主人だ。33歳にもなる俺のGSが普段使い出来るのはひとえにこのひとのおかげなんだが、この2人がまるで打ち合わせでもしたかのように同じセリフを吐いたのだ。


 アリガチな、勘違いした精神論のように「技術は足りなくても気持ちで補う」ていう訳じゃない。それこそラーメン屋でままあるように「一生懸命営業中!!」なんてことを店の入口にデカデカと書いたりしない。プロが一生懸命仕事するのはアタリマエ、3人とも確実な技術を持つ、俺が本当に尊敬するその道のプロだ。でもどれだけ技術と経験に長けても、結局、いちばん大切なことはどれだけ「丁寧に仕事する」か、なのだと改めて思った次第。




 そして面白いことにこの3人に共通していることが、3人とも「一匹狼」だということだ。パン屋さんとラーメン屋さんはお店を奥様が手伝ってはいるが、「作る」ことに関しては一人でやる。ダブルフットは従業員なし。そして頑固者(皆様ごめんなさい)であることも共通している。




 バゲット、食べてみたくなったでしょう?お店の場所はここです。




ブーランジェリー ボンヌ・ジュルネ



横浜市瀬谷区阿久和西4-4-10 TEL045-391-8033 
 6:00〜18:00  日曜・月曜定休





















 ♪「笛吹きインドひとり旅」好評発売中! ♪
代替文
 うえの作家デビュー作、「笛吹きインドひとり旅」、好評いただいています。堅苦しいインドの研究書(?)やガイドブックには載っていないインドの魅力満載! イラストは、フォルクスワーゲンの専門誌等でも活躍中のイラストレーター、二宮 言氏にお願いしました。余談ですが、二宮さんと打ち合わせしていて(彼はニュービートルのオーナーなのです)、なんと同じディーラーにお世話になっていることが判明しました。(世間はせまい・・・) 6月15日には全国書店一斉発売になっております。まだお読みになっていないかたのため(販売促進のため!)ちょっとだけ見せます。


・・・インド滞在5日めにして、そろそろ腹ぐあいがアヤシくなってきた。今回、出かけるまえから考えていたのは、日本からクスリを持っていかないで、腹こわしたらインドのクスリを飲もう、いうことだ。
 食いしん坊の割には胃腸が繊細なボクは、海外で5日以上おナカがもったためしがない。とくにインドは食事が「あれ」だから・・・ つまるところ、毎日「カレー」。むこうではカレーという呼び方はしませんけど。要するにtoo much spicy, too much oilyなのですね。
 で、例のミリオンに、「腹のクスリくれる?」と頼んだら案の定、「ドコガイタイノカトイレニワナンカイイッタノカウンコハカタイノカヤワイノカ○Х△ΩФ・・・・・・」
 あまりにやかましくて閉口したんだけど、文字どおり背に腹はかえられないからね。ちゃんとクスリ買ってきてくれたのはいいんだけど、ミリオンなにを血迷ったか、やおら母性本能発揮して、ほとんど幼稚園児を看病する母親のノリになってきたのにはさらに閉口した・・・



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 「日印アナデジ対決2001」ライヴ録音CD発売中(プライヴェート盤)
 2001年10月にラケーシュ・ミシュラ氏(タブラ)、パンカジュ・ミシュラ氏(サーランギ)と共演した、武蔵野芸能劇場でのライヴ録音を限定販売しています。(なくなり次第終了)
収録曲は、・プリヤダナスリ(インド古典音楽) ・PEACE FOR WORLD 2001 (インド古典のスタイルによる新作、うえの善巳共演) ・もみじ(当日のアンコールピース)の3曲です。税込¥1000 TOPページのアドレスへメールでご注文ください。





 「クラシックmeetsダンスビート」一部収録CD発売!
 ここ数年追求(?)してきた、クラシックのメロディとイマ風のビートの合体。今回、ボクのアレンジ1曲と、クラブサウンド業界で活躍中のヴェテラン、岩見正明氏に2曲お願いしたものが完成しました。
 チャルダッシュ(モンティ)/アレンジ・岩見正明
 剣の舞(ハチャトリアン)/     同     
 だったん人の踊り(ボロディン)/アレンジ・うえの善巳
なかなかいいカンジに仕上がりました。「ぴくるす」というオムニバスCDに収録されています。これもプライヴェート版で、残念ながら流通には乗らないので、メールでご注文ください。税込¥2000



































































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