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★他のページから削除した記事ですが、削除した順番に並んでいますので書いた日時は前後しています。

♪ アジアのごはん ♪ 2014/08/25


 仕事柄、海外での演奏が増えてきた頃、はじめて韓国に行ってオドロいたのは、メシがうまいことでした。それも、エラソーな高級料理でなく、庶民が普段フツーに食べているものが、です。韓国で道知事主催晩餐会(?)みたいなのに招待されたこともあったのですが、そこでの韓国高級宮廷料理(舌噛みそうじゃ)よりも、ソウルの街中の食堂のほうがウマい気が… その後、バンコクに入り浸るようになったら、屋台めぐりという楽しみが加わって、アジアンジャンクフード行脚に拍車がかかってしまいました。
 場所によりさまざま違いはありますが… インドでも、そらタマには大ハズしすることもあるけど、10ルピー(30円)程度の喰いモノが充分ウマいです。バンコクの、20バーツ食い放題食堂なんかも、こっちが店の経営を心配するくらいウマいですから。
 好みの問題も絡むとは思います。ボクのばあい、カンペキにB級グルメだし、それと「工場製」の味が極端にダメなんですね。「大量生産系」といいますか、インスタントとか、カンヅメとか、レトルトとかですね。ファミレスも基本的に工場製の味がするでしょ。メシってのは自分で食材買ってきて火入れて、てのが基本の基本でしょ。そこを人任せそれも大量生産になるとあっというまに拝金主義者がロクでもないことを始めるんだよね。見てないのをいいことに。商売の極意はすっかり騙しのテクニックになってしまった。バレなきゃいいって?こちとらダテに舌鍛えてんじゃないんだよ。オンナ子供騙せてもだなぁ… まぁ自分で料理するにしても国内産肉も野菜も信用ならない今日このごろではあるが。
 まぁバンコクのバーミーも、いまや日本ではお目にかからなくなった「○の素」タップリの味ですけどね。でも目の前にすべて見えてるだけはるかにマシ。素直に感心するようなアジをだす屋台のオヤジがいっぱいいます。
 これをウチで、「あのときあそこの店で食べた○○○○の味を再現!」となると、日本では手に入らない食材・調味料が多々あって、断念せざるを得ないことが多かったんですね。10年前に比べればずいぶんとイロイロなものが手に入るようになったとはいえ、「最後の決め手」みたいなものが足りないこともしばしば。たとえば、タイのチャーハン、「カオ・パッ」には、シーズニングソースという、ウスターソースオイスターソースの中間みたいな調味料がどうしても欲しいんだけど、日本のスーパーでは売ってないわな。ロンドンのサインズベリーがうらやましいこと。仕方ないから以前はバンコク行ったときに買いだめしてきてたんだ。

 それがここにきて一挙に解決したのは、ウチのそばの市場、正確には「大東京総合卸売センター」の中に、アジアンミールという、エスニック食材の専門店が出来たからなのですね。この店がスゴイんだ。韓国・中国・タイ・フィリピン・マレーシアその他、アジア中の食材の、めぼしいものはほとんどあるんじゃないか、という勢い。日本でこれだけの需要があるんじゃろか?と思わなくもないのだが…  若い御夫婦が2人でやっているのだけど、ハーブティーの品揃えもすごくて、最近はずいぶん繁盛している。

 興味あったらのぞいてごらん。
 Asian Meal アジアンミール 大東京総合卸売センター(通称府中市場)内 
042−336−6399







♪ 響き ♪ 2018/09/12


 「自分で確かめないと気が済まない」性格はどこから来たか?


 あまり遺伝じゃなさそうだ。おやじもオフクロもとくにエキセントリックなところはない常識人だし。隔世遺伝?ウチの家系は警察官、司法書士、大学教授みたいなカタい職業ばかりで、その可能性もうすい。

 「響き」ってなんだろう?音楽に関するものだと、辞書的には

1,音が広がり伝わること。また、その音。
2,ものに反射して聴こえる音や声。反響。
3,余韻。残響。また、耳に受ける音や声の感じ
4,振動。

 とある。

 自分で楽器をやる人は知っているが、「良い音」を追求するにはこの「響き」が重要になる。ところが、辞書にもあるようにそれはその場所の反射や、空間の広さによっても変わってくるので、なかなか厄介なのですね。

 楽器単独でも「音の芯」的な要素と「響き」的要素があって、響きは場所によって違って聴こえるから、普段両者を合わせて聴いている奏者の耳は、その場所に合わせた補正をしなければならなくなる。まぁだいたいは経験がモノをいうわけですが。


 マニア以外は家に大仰なステレオセットを置かなくなったけど、40年まえくらいの「ハイファイ追求時代」は、スピーカーはデカいほうがエラい、の価値観だった。オーディオショップでJBLとか、タンノイとかのスピーカーを視聴させてもらってその音の豊かさに驚き、とうてい手が出ない価格を眺めてため息をついていた。

 日本のメーカーや、JBLアルテックを始めとするアメリカのメーカーは、スピーカーの箱はガチガチに固め、極力共振が発生しない指向だった。それはそれなんですが、タンノイをはじめイギリス製のスピーカーは「響く」のだ。


 それって「箱鳴り」って言うらしいですが、スピーカーユニットから出る音に雑味を加えず、忠実に鳴らそうとしたら確かに箱は共振しないほうがいい。でもそのような音はなんか「冷たく」聴こえるんですね。よく言えば冷静、客観的な音と言えるんだが。

 あるとき、ステレオ以前の「蓄音機」、それもグレデンザという、100年前くらいにアメリカの金持ちが家に置いていたようなヤツを聴かせてもらって納得した。
 蓄音機はモノラルで、ステレオ効果による「音の拡がり」はないから、箱自体を響かせて「響き」を出そうとしているのですね。




 僕の「ひとりでできるもん」のいちバージョンとして、オルゴールに伴奏させて笛吹く、ってのがあるんですが、本物のリュージュのオルゴールでもやってみたんですけど、任意のスタート・ストップには難あり、曲数にも難あり、ゼンマイほどけてくると自動リタルダンドになるし、ちと現実的じゃない。で、不本意ながらハードウェアには電気とデジタルを使い、でも「オルゴールらしい響き」を出したくて作ったのが上のボックス。どうやって「箱鳴り」させるかを試行錯誤しました。



 で、フルートのほうはこの40000番台のヘインズ。マニアご用達のハンドメイド30000番台とは違い、レギュラーだしディボースケールですが、ヘインズお約束のガタガタキィは健在。今の新しいものはわかりませんが、この時代のヘインズって新品の時からキィのガタはあたりまえ。よく「造りが粗い」って言われるんですが、あるマニアはわざとそう造っている、それによって「楽器の響き」を止めないようにしている、って言うんですよ。

 うーん、自分で試してみたい。本当にガタとったら響きが変わるのか?でも自分でキィのガタ取りはムリだから、修理屋さんにお願いするしかないし、確かめてからまた頼んでもとに戻してもらう?

 呆れられること必至。

 でもたしかに、スピーカーの造り方での、アメリカとイギリスの価値観の違いからすると、「ガタは悪」とは違う価値観もあるかも、とも思い、「自分で確かめないと気が済まない」病は収まらないのです。






♪ アジア一人劇祭 ♪ 2018/08/17


 8月3〜5日、韓国・居昌(コチャン)で開催された第29回アジア一人劇祭に、パントマイム清水きよしさんの音楽担当として参加してきました。
 韓国も暑かったです。韓国人たちは、やはり今年の夏は異常に暑いと言っていました。


 アジア一人劇祭は、日本・インド・マレーシア・台湾と毎年持ち回りで開催していた初期から、韓国・公州での第2期を経て、21世紀に入ってからは慶尚南道の居昌で開催されています。実行委員会の本拠地、施設もここで、廃校になった小学校の建物を県から借り受け、改修して使っています。毎年この時期の開催期間になると校庭に野外ステージを組みます。

 韓国でのイベントに呼んでいただくと毎回感心するのですが、文化活動に対する観客、行政の理解度、それに予算は日本の比ではありません。まったく、国の豊かさとは何をもって量るのか、考えさせられます。K-popは第三次ブームだそうで、日本のジャニーズ系のようなガチャガチャしたものも盛んな反面、伝統的・文化的なものに対する理解もしっかり同居している感触です。



 今年の居昌・アジア一人劇祭は、中国・マレーシア・ヴェトナム・フィリピン・ウズベキスタン・日本そして韓国のチームが出演しました。開催国韓国のチームは、伝統芸能からモダンなアートまでさまざまです。会期中には今後の発展や一人劇(モノドラマ)の定義を議題とするシンポジウムも開催されました。





韓国の伝統影絵。ボイスと打楽器による音楽を伴って上演されますが、音楽のほうはさすがに伝承が途絶えていて、旧い録音を使わざるを得ない状況だそうです。こちらは客席側。





スクリーン裏はこうなっています。大きさの見当がつくでしょうか?





ヴェトナムから参加のディン・リンさん。3代続くフルーティストの家系の、彼は2代目。息子もフルーティストだそうです。今回は姪の木琴奏者と一緒に参加です。




こちら、ディンさんチームリハ中。
しかし変わったカタチの木琴ですね。僕も初めて見ました。音はフツーに木琴の音がするのですが…






♪ チャリティコンサート ♪ 2018/06/05


 6月23日(土曜日)14:00、相鉄線二俣川駅南口からすぐの、カトリック二俣川教会で、ギターの田中春彦さんと2人でコンサートします。


 この、笛吹き無頼漢に頼む教会も教会だと思うが(笑)、田中さんクラシックだけでなく守備範囲広いので、クラシックありジャズあり民族音楽ありの楽しいコンサートにしようと思っています。



 いまのところ予定している曲目は、

  主よ 人の望みの喜びよ
  愛の挨拶
  ゴセック タンブーラン
  マイ ファニー ヴァレンタイン
  オーバー ザ レインボー
  オヨーダ
                  そのほか

 カトリック二俣川教会は、モダンなつくりですがよい響きで、田中さんの繊細な響きと僕の無手勝流(笑)のコントラストを楽しんでいただけると思います。




 チケット・お問い合わせは
二俣川教会 ゆりの会 045-391-6296 
またはwonder-yocchy@docomo.ne.jpへ。

  
 



♪ 個人的には ♪


あなたはだあれ?

 若年層世代のコミュニケーション能力不足と高齢ドライバーのペダル踏み間違え暴走事故。なんの関連もなさそうなこのふたつ、個人的には同じ要因が影響しているのではと思うのだがいかがかな?


 それは「モノとの対話不足」。世の中進化して、便利になって日常のなかで接する「モノ」と対話しなくなったことが影響しているのでは?


 僕がキライなモノその1。「赤外線リモコン」。その2「タッチパネル」。コイツら、こっちの「指令」をちゃんと聴いたんだか聴いてないんだか釈然としない。で、反応にイマイチ納得できないときは何回も繰り返して押す動作がアタリマエになってる。


 あのなあ、ひとになんか言われたら返事しろって。もとい、昔ながらの機械式スイッチなら、「パッチン」という手応えを伴ってONかOFFか示すよね。


 なにアホなことを、とおっしゃるかもしれませんが、これって大事なことなんじゃない?バーチャル世界がフツーな若者たちには変人扱いされそうだが、アクセルペダルとは何なのかを理解しないで踏んづけるようになったから暴走事故は起きる、と個人的には思う。実際、フライバイワイヤになっちまって機械的には繋がっていないことも普通になりつつあるし。もちろん、受け入れていかなければならない「進化」のひとつだろうとは思います。今は過渡期、習熟期なのだろうと。A320だって習熟期には何回も墜落したが、そこにあった新しいチャレンジが航空機の進歩に多大な貢献をしたのですよね。


 高齢ドライバーは(高齢者に限らないようだが)心理的にパニック状態になったら通常では考えられない行動をすることがある、と言われる。でもパニックだからって何もかも解らなくなる訳じゃない。「ブレーキペダルと思い込んでアクセルを踏み続けた」はそもそも、2つのペダルを「進めペダル」「止まれペダル」としてしか捉えてないからなんじゃ?そしてキカイの反応に納得いかないと繰り返し押す(踏む)。そもそもネコとライオンぐらい違うと認識していれば、パニくったとしても間違えてライオンを抱き上げようとはしないだろ、って。


 僕の昭和バイクは走る骨董品なんだが、インジェクションがアタリマエになった最近の大型バイクのアクセルワークは「低回転からガバッっと開ける」ほうがコントロールしやすいそうな。僕のでそんなことをしたらたちまちエンジンは不機嫌のカタマリになっちまうから、エンジンと対話しながら開けていくことが必須。いきおい日常、機械と対話しながらコントロールすることになり、それが楽しいのだが。ちなみに僕のGSは「趣味の旧車」ではなく、おシゴトに乗っていく日常そのものです。でも「楽しみ」ではなく、ただメンドくさいだけ、と言われていまうのが現代。旧い楽器でも同じで、現代的な改良スケールの楽器では気にする必要もないことを、楽器と対話しながら理想の音を追い求めていくのがフルート吹きの楽しみのひとつだと思うんだが、どうも最近の潮流はそうではないらしい。


♪ 説明することの難しさ ♪



 たしかに、10代のときから乗ってる(途中ブランクあるけど)。そのころはリクツなんぞなにも知らず、右コーナーでよくコケた。リターンしてしばらくしても、右コーナーはトラウマになってた。


 小型のオートバイってのは、いい加減に乗ってもなんとかなってしまう。20歳前後という若さもあったし。でも50代になってから、その頃からの憧れだったナナハンに跨ると、そうは問屋が卸さないことを思い知った。

 チマタに溢れる「ライテク教本」にはいろいろ書かれてる。いわく、「低速走行ではニーグリップが重要」「フロントブレーキを開放してバイクを寝かす」「グリップは指3本がけが正しい」うんぬん。

 若い頃に比べれば新しいことを覚えにくくなってる自覚があるオジさんは、フルヘルのなかでブツブツ復唱しながら乗ってる。渋滞に巻き込まれたら「ニーグリップニーグリップ」、目前に右コーナーが現れたら「フロントブレーキ、フロントブレーキ」。で、毎日ではないがブツブツ言いながら6年乗ったら、オジさんには新しい次元が見えたのだ。それは…

 「なんだ、それらこれらって些末事じゃん」

 もちろん、それらひとつひとつは正しいのだが、それが最終目的ではないのだ。最終目的は「バイクの重心をコントロールすること」。300kg近い車両重量に自分の体重をおっかぶせて、手首、膝、腰、足を入力点にして、そしてスロットルとブレーキも入力要素として使って、ビークルダイナミクスをコントロールすることなのだ。

 入力点を意識、あるいは入力量を意識するために、ニーグリップやらステップ荷重やらが必要なわけだ。つまり、最初に「ニーグリップ」を言うのはいわば方便で、「本質」を最初から語ってしまっても理解されないから、ということなのだ。

 これは自分のオシゴトにも言えるな、と思った。腹式呼吸の本質は「息吐出の抑制を横隔膜で、押し出しを腹直筋主体の腹筋で行う」だが、フルート初心者にこんなこと言っても「????」だよね。

 だからとりあえずは順序が先の「吸うほう」に、「横隔膜を下げて息を吸って」と言うわけだが、個人的にはそのあとで、頃合見計らって「本質」、最終目的を説明しておくべきだと思う。生徒が小学生とかだと無理だけど。


 だが実際は、日常ほとんど自律神経任せになっている横隔膜のコントロールを「実感」してもらうだけでもひと苦労。いきおい「はい、目を閉じて自分の体内をイメージしましょう!そしてカラダの奥深くに満たされていく空気を感じましょう!」みたいな、怪しいヨガの先生(ヨガが怪しいのではないですよ!)みたいなモノ言いになる。そして、モノゴトの本質を説明することは難しい、と痛感する。

 結局は、昔から洋の東西問わず行われてきた、師匠と弟子が1対1で向かい合ってオウム返しさせる(そっくりに真似させる)が伝授法の本質なのだと思う。
「楽譜」やら「録音」やらの、便利なモノが出現したおかげで、かえって「本質」を見誤りかねないことになってるんじゃ、とときどき思う。






♪ CM ♪ 2014/03/05



募金は「国境なき医師団日本」に寄付します

 以前、CM音楽の仕事をしてる時によく思った。「俺はこの仕事をしてていいのか?」

 CMの録音、末端のプレイヤーはなんのCMなのかわからないまま終了することは珍しくない。べつに末端プレイヤーの名前が出るわけではないとはいえ、得体の知れない健康食品だったり、アヤシイ通販だったりする可能性はあるわけだ。そんなもんに自分の音が添えられてるのって、寝覚め悪くないか?

 基本的にオシゴトってのは、そんなこと言ってたら成り立たない。ギャラを払ってくれる人がいて、持てる能力を総動員してその人の要望に応えようとするのが職人としての仕事ってもん。まぁ俺がいくつになっても青臭いことを言ってるだけ、ってもんでしょうが。

 でも21世紀、グローバル化は否応なくすすみ、自らの行動に以前よりも注意をはらわなくてはいけない時代だと、個人的には思う。何気なくひとつの商品を買ったことが、遠く離れたどこかでだれかを迫害することに繋がっていないか?「否定しないことは肯定したことと同じ」の原則は、現代ではより重みを増していると思う。

 個人レヴェルで「容認出来るか出来ないか」(まぁ好き嫌い)の問題だと思いますが、そもそもTVCMを容認できない(だから地上波民放は見ない… NHKは容認できる、ということではないですからね)俺は、やっぱCM音楽のオシゴトには関わるべきではないわな。

 なんでそんなこと思い出したかというと、昨日「容認できない演奏にどう接するか」があったから。もちろん僕が関わりのないところのことはどうでもいいんだが、安倍首相の国会答弁じゃないけど「関わりを疑われる」場でどういう態度をとるべきなのか。僕が言う「容認できない演奏」は単なる上手い下手ではありません。発表会の子供の演奏はちゃんと「成立」していると思うし、アマチュアの演奏会で一生懸命演奏している姿も微笑ましい。でも時々、なにかをはき違えた設定になっていることがある。

 厳しいことを言わせてもらえば、アマチュア演奏家は「ボランティア」を名乗るべきではない、と思う。俺たちプロが無報酬で演奏すればそれはボランティアだが、アマチュアは本来「カネ払って演奏(練習の「成果」を発表?)させてもらう」べきであるからだ。災害時の労働ボランティアとはチト意味が違う。

 昨日のイベントは、トップが小学生の木管アンサンブル。二番目は民謡と踊り(かっぽれ)。で最後がアマチュアのヴァイオリンとピアノのデュオ。かっぽれはまぁ微笑ましい内容でよかったとして、問題なのは、このオバさんデュオ。全体を僕が制作したかたちになっているにもかかわらず、モロモロの政治的事情で出演が決まった(僕は聴いたことがない)わけだ。宣材用にもらったプロフィールによれば「親しみやすい曲目を、子育てサロン・老人ホーム・デイサービスなどの各所でボランティア演奏、皆様に喜んでいただいております」とある。 

 ここにはいくつか間違い、オバさんの勘違いがある。「親しみやすい曲目を」自体は悪いことでもないが、どちらかといえば本来は「わたしたちが(かろうじて)弾ける曲目を」と書くべき。「ボランティア演奏」は上に書いたとおり。そして「皆様」が喜んでいる訳ではない。


 われわれが舞台を制作して、アンケートをはさんでおいてもそうなのだが、このようなとき日本人は滅多にネガティブな感想は書かないし、言わない。その演奏を聴いてネガティブなキブンいっぱいになってしまったひとはじっと黙ってる。高級有料老人ホームででもないかぎり福祉系はどこも予算が厳しく、そのなかでレクリエーションのプログラムを充実させなければならないので、タダで演奏してくれるアマチュアは有難い。仮に音楽の解るトップがいても、「ひでー演奏だけどタダだからまいっか」。だからオバさまたちの耳に入るのは好意的な感想ばかりなわけだ。そして、そのような場ではそこに居る人々すべてが自分の意思でそこに居るわけではなく、老人ホームなどにはそもそも音楽が嫌い(どんな内容であっても)という人もいる。聴覚その他、感覚が変化してくると「音を聴きたくない」ことだって有り得る。有料公演ならば自由意思でそこに居るひとの割合は高いが、イベント的に「不特定多数」に聴いていただく場で「成立」させるためには、音楽の出来をカヴァーする意味でも内容にマッチした演出が必要だ。

 この日僕は、演目トップの小学生の木管アンサンブルを指導して本番も賛助出演。もちろん近年目覚しくレヴェルが上がったとはいえ、今回の曲目も毎日頑張って朝練したとはいえ、小学生の演奏も拙いことには変わりない。でも彼女たちは揃いのユニフォーム、そして子供特有の一生懸命感がみなぎっていて、意欲だけでは済まない部分は(プロの)大人が補い、曲の合間は僕のMCで笑いも取るから、ちゃんと「成立」させることができるのだ。

 かたやオバさんたちは、一曲目の「タイスの瞑想曲」の第一音から音程外れまくり状態。着用に年齢制限なかったっけ?の肩丸出し、シャイニーオレンジのロングドレス。そして自らが見えないオバさん特有の素っ頓狂なMC。もちろん音楽は音程がすべてではないが、ものには限度があるって。

 僕は勝手に「ニコルスン症候群」と言っているんだが、映画「戦場にかける橋」で、日本陸軍の捕虜になったイギリス軍将校のニコルスン大佐は、当初日本陸軍の斉藤大佐に反発するものの、架橋を急がなければならない日本軍が出した交換条件を呑んで作業に協力するうち、捕虜となってから失われていた自らのプライド、アイデンティティが復活、逆に意欲的に日本軍に協力するようになる。あげくには橋の破壊工作に潜入してきた同胞を妨害しようとして、彼が日本軍の兵士に撃たれてからからはたと気づくのだ。

 そのオバさんたちの演奏を、出番が終わった小学生たちも会場で聴いてたんだが、「タイス」のしょっぱなで僕の隣に座ってた陽菜ちゃんが小声で、

 「せんせい、あれって音外れてませんか?」

 僕は苦笑して「大人の世界にはいろいろあるんだよ」と答えるしかなかった。そして、すくなくとも自分が関わる場ではニ度とこのようなことにならないようしようと心に誓ったのだ。だって一人の大人として、子供達に顔向けできないじゃん。

 ええ、解ってます。僕がいけないんです。聴いたことがあろうがなかろうが、もらったプロフィールをそのままプログラムに載っけたのは僕だからね。僕がプログラムを製作した以上、「文責・うえの」なわけだから。この場合「オンチなオバちゃんのヴァイオリン発表会」って書かなければならなかったわけだ。「音楽ボランティアなんちゃら、多くの福祉施設で演奏」をそのまま載っけたら、それ見た子供は(大人も)それなりの演奏するだろうと思うわな。なにを隠そうこの僕だって、このプロフィールから察するにそれなりの演奏するだろうと思ってたのだから。結局、自らの姿が見えないオバさんと、そのような音楽を提供している福祉業界というものをあらためて確認したわけだ。「否定」しなくちゃ。「否定しないことは肯定したことと同じ」。

 音楽にはちからがある。経営陣の内情にあきれ果てて、とある福祉の現場を離れて久しいが、現場には「音楽が持つちから」を実感できる機会は数々あった。だからこそ、そのような場に音楽を提供する場合は骨太な思想が必要だと思うんだが、ただ現場の実情でいい訳がましい(であろう)状況をつくりだしている福祉業界にもあらためてアイソが尽きた。

 誰しも「生きがい」は大切だ。希望を失っては生きられない。でもそれに目がくらむあまり、本質的なもの、大切なことが見えなくなってしまっては本末転倒だ。音楽は神(この場合の「神」は宗教とは関係ありませんからね)と向き合うもの。友人であるインドの演奏家たちのマインドである、「捧げた音楽に神がご満足くだされば、そこにいる聴衆に恵みをくださる」の図式だ。違う意味での、「お客様は神様です」。僕は三波春夫先生も実はこの意味で言ってたんじゃないかと思うんだが。演奏は自己満足を実現するだけの行為ではない。






♪ 身体記憶 ♪ 2017/06/02


 横浜の老人福祉センターで、「じーばーぴあの」というクラスを持っている。会員10名限定の個人レッスンクラス。自分の出番でないときは聴講してもらう。なんともちからの抜ける会の名前ですが、命名したのは会員のみなさんで僕じゃありません。

 老福カルチャーは、残念ながら「健康上の理由により退会」が付き物なので、多少の出入りはあるのですが、入会条件は「70代でも80代でも大丈夫ですが、これから始める(ピアノ経験のない)ひと」。すでにある程度弾けるひとはヤ○ハ音楽教室にでも行ってもらうとして、意欲はあるけどトシいってから始めることに尻込みしているひとがターゲットなわけですね。

 「口からでまかせ」に生きたいうえのは、企画立ち上げるときも思いつき。内心本当は「だいじょうぶかいな」と思っているのですが(内緒!)、今回も「だいじょうぶです!!ゼッタイに弾けるようになります!!」と大言壮語して、それを実現するべくあれこれ工夫してきた訳ですね。そのなかから見えてきたのは…

 そりゃたしかに指もこわばり気味のお年頃ですが、じいちゃんばあちゃんたちが「弾きたい」曲の範疇ではそれはそれほど問題ではない。むしろ「アタマを身体にどう結びつけるか」の問題なのだということが解ってきました。

 ピアノを習ったことがないひとは、ほぼ全員「あんな両手を別々に動かすなんて、ワタシには出来ません」とおっしゃるのだが、それは間違い。たしかに右手と左手は違うことを弾いているのだが、「弾けてる」状態ではひとつのこととして、小脳がコントロールしているんですね。

 もちろん最初からじゃありません。最初は、右手のこと、左手のこと、そして楽譜、それぞれを別個に大脳が認識・把握するところから始まります。でもそれを「繰り返し」て、小脳記憶⇒身体記憶にしていかないと、「弾ける」にはならないんですね。それはシニアだけの問題ではなく、子供でも同じです。

 子供の場合はまだ難しいことよく解らず、でも身体は柔らかい(身体記憶が作成されやすい)状態ですから、教師の仕事はいかに飽きさせずに回数繰り返させるか。集中力の続かないコドモのこと、あの手この手、手を変え品を変え、でも回数はこなした、みたいな。

 シニアには、ここのところを理解してもらうのが難しいんですね。コドモと違ってアタマ出来上がってるから、単調な反復練習はスグにアタマが退屈してしまう。ニンゲン「好きこそものの上手なれ」なんで、アタマが退屈すると小脳書き込み効率がガックリ落ちます。それに自分自身自覚あるけど、「トシとってから始めたことは覚えにくい」。小脳に書き込む能力は確かに若い頃より落ちるようです。なので、オトナ対応反復法として、楽曲・文化・音楽史的な、知的好奇心を掻き立ててそれが反復をサポートしてくれるような流れを目指しています。

 世の中には「天才」と思えるひとがどの分野にもいます。「天才」の定義はいろいろありますが、音楽・スポーツの分野では、そのひとつは「小脳書き込み能力の高さ」だと思っています。桐朋でも、空手の道場でも、「天才」的な人物はたくさん見ましたが、彼らの能力のひとつは、凡才よりも「出来るのが早い」わけですね。「よくわからないけど出来る」それは「小脳力」の高さがひとつの理由だとニラんでいます。レヴェルが高くなればなるほど、考えなければならないこと、弾きながら(動作しながら)意識しなければならないことも増えてくる。それらひとつひとつを、演奏中にアタマをフル回転して処理しても間に合いません。どうしても「身体任せ」(小脳任せ?)の部分を増やしていかなければならないわけですね。



 でもひとりの凡才として、「アタマ(大脳)で理解したことを自分の身体を使って実現出来るようになる」過程をたどるのも楽しみ方のひとつ。凡才はその過程を大いに楽しめると思っています。




♪ シンバル反射板 ♪ 2017/04/13


 自称「なんでも屋」ですので、クラシック・ジャズ・ラテン・演歌その他、頼まれればなんでもやります。

 でも、自主制作で「なにやってもいい」状態で舞台を考えるなら… ピアニスト伴奏に頼んで「ロマン・フランス近代作品集」てのは… ない。誰か他のひとがやればいい。じゃあジャズトリオで「ジャズフルート・スタンダード」ってのは? やっぱない。誰かがやるだろ。じゃあ自分が本当にお客様に見せたいパフォーマンスはなにか?

 自覚が足りないのかも知れませんが、本人それほどヘンクツでもないつもりなんですが、「ひとり完結状態」が、ジブン的にはいちばんしっくりくるのですね。

 でも単音楽器であるフルートでは、えんえんと無伴奏ソロを聴かされるのはツラいと思う。学生の頃、ニコレ先生が無伴奏曲だけのプログラムで構成した演奏会聴いたけど、まぁこちらのアタマの中もまだまだだったこともあったと思うけど、大フルーティスト、オーレル・ニコレとはいえ、はっきり言ってツラかった。まぁこういう内容は一般音楽ファン向けというよりは、関係者向けセミナーみたいなもんだけど。

 で、自作曲・自編曲をデジタルに録音しておいて合わせて吹く、てのをよくやるんですが、これは一歩間違えると駆け出しアイドルのカラオケステージ(イメージが旧いか?)になってしまうんですね。

 かれこれ30年くらいあーでもない、こーでもないとしてきた中でだんだん見えてきた図式は、「録音ものは音が厚くなるほどカラオケ臭くなる」。本当は「録音」ではなく「リアル」にこだわりたいが、手は2本しかないし、足は空いてるといっても… 足鍵盤とかも考えたけど、絵面的に「なんか違くね?」って思います。「記録」を拒否して「リアル」にこだわるひとつの方法として、電気的にエフェクター駆使してポリフォニックに鳴らすことも出来ますが、これは演奏中かなり忙しい。それに「フルート演奏のための思考」と「機器操作の思考」は異なる気がする。これを同時に進行させるのはどっちつかずになるリスクが、メリットを超えてしまう気がするのですね。
 以前にブリュッセルで、規模的には世界一と言われている楽器博物館を見たのですが、やはり似たようなことを考えるひとは昔もいたようで、「ひとりで出来るもん」的な合体楽器(?)が以外に多く展示されていたのには驚きました。あれも演奏はそうとう忙しいだろうなぁ。

 いろいろと試行錯誤の結果、記録媒体はデジタル、発音もスピーカー。というところで現在は妥協しています。録音物は「椅子」と考え、そのうえに生きたニンゲンを載せようと。そのかわり、置く場所にふさわしい椅子を選ぶように、スピーカーに趣向を凝らそうと。曲中、テンポを任意に(いつも同じにではなく、その時々で)変化させたいときはシーケンサーも使います。クォーツアナログ時計、と言えなくもないですが、将来的には機械式時計に発展(世間一般的には逆行?)出来ることを願いつつ。

 だからスピーカー、いろいろ作りました。ステレオが嫌い、一点音源にしたいので、ギミックですが旧い大きな電気ラジオのボディのなかにバイアンプ駆動のウーファー・ツィーターを組み込んでみたり。ツィーターも、モノラル状態で空気感の出るものを求めてコーン、ソフトドーム、ハードドーム、ホーンとさまざま試しましたが…

 どれもイマイチ。考えてみたらオーディオデータ自体が20kHzで切れてるんだから、なんぼツィーター変えても空気感はでない、という結論になりました。
 で、こんどは「後から倍音を付加する」コンセプトで、ギターやオートハープのボディにスピーカーユニットを組み込んでみたりしましたが、これもイマイチ。どうやっても楽器のボディが充分には駆動されない。スピーカーの、「電気的エネルギー⇒音響エネルギー」の変換効率ってすごいんだね。楽器はそれよりもゼンゼン効率が悪い「物理的エネルギー⇒音響エネルギー」の変換をしてるわけだ。


 先日、ふと思いついて実験してみたのは、「シンバルを反射板として使う」ことでした。ガワにはヤフオクで買った寅さん風の革トランクを使い、ここにAERのアンプを組み込んでスピーカに対向した位置にシンバルを設置する。

 これがですね、思いのほかうまくいったのですね。明らかにシンバルなしでは無かった倍音領域が出る。かといって嫌な倍音は感じない。サウンドの広がり、響きもシンバルの角度とトランクの蓋で調節可能。持ち運び容易 (^0^)v

 うーん、充分にヘンクツか。





♪「笛吹きインドひとり旅」好評発売中! ♪
代替文
 うえの作家デビュー作、「笛吹きインドひとり旅」、好評いただいています。堅苦しいインドの研究書(?)やガイドブックには載っていないインドの魅力満載! イラストは、フォルクスワーゲンの専門誌等でも活躍中のイラストレーター、二宮 言氏にお願いしました。余談ですが、二宮さんと打ち合わせしていて(彼はニュービートルのオーナーなのです)、なんと同じディーラーにお世話になっていることが判明しました。(世間はせまい・・・) 6月15日には全国書店一斉発売になっております。まだお読みになっていないかたのため(販売促進のため!)ちょっとだけ見せます。


・・・インド滞在5日めにして、そろそろ腹ぐあいがアヤシくなってきた。今回、出かけるまえから考えていたのは、日本からクスリを持っていかないで、腹こわしたらインドのクスリを飲もう、いうことだ。
 食いしん坊の割には胃腸が繊細なボクは、海外で5日以上おナカがもったためしがない。とくにインドは食事が「あれ」だから・・・ つまるところ、毎日「カレー」。むこうではカレーという呼び方はしませんけど。要するにtoo much spicy, too much oilyなのですね。
 で、例のミリオンに、「腹のクスリくれる?」と頼んだら案の定、「ドコガイタイノカトイレニワナンカイイッタノカウンコハカタイノカヤワイノカ○Х△ΩФ・・・・・・」
 あまりにやかましくて閉口したんだけど、文字どおり背に腹はかえられないからね。ちゃんとクスリ買ってきてくれたのはいいんだけど、ミリオンなにを血迷ったか、やおら母性本能発揮して、ほとんど幼稚園児を看病する母親のノリになってきたのにはさらに閉口した・・・

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 「日印アナデジ対決2001」ライヴ録音CD発売中(プライヴェート盤)
 2001年10月にラケーシュ・ミシュラ氏(タブラ)、パンカジュ・ミシュラ氏(サーランギ)と共演した、武蔵野芸能劇場でのライヴ録音を限定販売しています。(なくなり次第終了)
収録曲は、・プリヤダナスリ(インド古典音楽) ・PEACE FOR WORLD 2001 (インド古典のスタイルによる新作、うえの善巳共演) ・もみじ(当日のアンコールピース)の3曲です。税込¥1000 TOPページのアドレスへメールでご注文ください。





 「クラシックmeetsダンスビート」一部収録CD発売!
 ここ数年追求(?)してきた、クラシックのメロディとイマ風のビートの合体。今回、ボクのアレンジ1曲と、クラブサウンド業界で活躍中のヴェテラン、岩見正明氏に2曲お願いしたものが完成しました。
 チャルダッシュ(モンティ)/アレンジ・岩見正明
 剣の舞(ハチャトリアン)/     同     
 だったん人の踊り(ボロディン)/アレンジ・うえの善巳
なかなかいいカンジに仕上がりました。「ぴくるす」というオムニバスCDに収録されています。これもプライヴェート版で、残念ながら流通には乗らないので、メールでご注文ください。税込¥2000
































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