過去の投稿3

🎵 ナゾの楽器 🎵 2023/07/27

 今までかなり楽器をとっかえひっかえしてきました。一種の「青い鳥症候群」です。どこかに自分にとってもっと理想的な楽器があるだろう、って。疑い深いへそまがりなんで、「これは銘器なんだから楽器には問題なし、あとは練習あるのみ」に納得できなかったからなのですね(笑)。

 「青い鳥探し」に終止符を打たせてくれた最大の功労者はムラマツ製の旧い波型歌口なんですが、そのポイントはボクの「下唇ジャマ」「上がらない口端」「赤筋(疲労しやすい筋肉)」に対応してくれるところ。もうひとつ「歯列に対して低く位置する唇」(笑顔のときに歯が見えにくい)も加わるかも。日本人の場合モンゴロイド的厚めの下唇をお持ちの方は少なくないと思うんですが、ほかの2(3?)条件が重ならなければ他の解決方法があると思う。でもボク自身の身体的特徴であるこれらの要素を、自身の身体の個性であると認識するところから始めるならば、現代の一般的な形状であるストレート歌口に自分のアンブシュアを「あーでもないこーでもない」して合わせるより、凹んだ波型プレートでの下唇の使い方を追求するほうがよっぽど明るい未来がある、と結論しました。ラファンなどにあるアドラーやドイツ系の波型、いっときムラマツ・サンキョウにあったハイウエーブとは目的が違います。

 この「旧ムラマツ波型」はドイツの楽器によくある波型とはプロポーションが異なり、リッププレート手前(唇に当たる側)が凹んでいるのとともに、チムニーの壁も手前側は低くなっています。

 ヘタクソな絵で済みません。断面図的にはこんな感じです。単純に、向こう側へ外転させれば高さ揃うんじゃね?と思えますが、それではチムニーの壁の傾きがおかしなことになるので、どうもこのように捉えるのが正解のようです。

 現代の標準、ストレートのリッププレートに比べてどう違うのか。最初は戸惑いますが、あーでもないこーでもないとやって慣れてくると、ボクにとっては下唇の自由度が高いことに気がつきます。より緩いアンブシュアで吹くことが出来るのですね。ただし、いわゆる「ロックストロ・ポジション」的な持ち方とセットです。今だからこそ白状しますが(笑)、初めてフルートを手にしたときから「下唇がジャマ」でした。左手首の「起こし」を多めにとって唇へのプレスを少なめにすることで、波型プレートの凹みへ下唇を潰さないまま収めることが出来ます。
 この位置関係と、結果出来上がる下唇の形状で、音色変化のため、あるいは跳躍のために口端を締めたときの息ビームが、口周りの他の部分であれこれバイアスをかけなくてもエッジに向かってくれます。
 あと「疲れやすいアンブシュア対策」ですが、前述の要素から、口周り全体を波型歌口に合わせてセットアップすると、バイアス(トリム?)値を設定する必要が減るので基準をより緩めに設定出来て、疲労を招く要因を減らせるわけですね。「短時間的には強力だけど持久力に乏しい」赤筋は「チカラ入れっぱなしにしない」が使い方のコツで、折々に緩めないとイントネーションが悪くなったり、ダイナミクスコントロールがやりにくくなったり、コンディションの維持が難しかったり。実際いっときマイルドに顎関節症になっちまったし。練習を重ねて無意識領域データに落とし込むとしても、操作の総量が多いことはたしかで、これらの操作が少ないほうが「音楽に集中できる」ことは確かよね。

 これも今だから白状しますが(笑笑)、頭部管何本もオシャカにしました。良い子は真似してはいけない悪い子のイタズラです。頭部管を削る… フツー向こう側エッジとか、ショルダーやチムニーのスソだと思うんですが、ボクの場合下唇がいいカンジに収まることを夢見てプレートの手前側を削るわけです。思い出すのは音大受験前にいっときだけお世話になった木下芳丸先生のこと。先生、やっぱり波型のリッププレートの手前側をさらに削って、削りすぎて穴があき、エポキシ接着剤で埋めてた(笑)。ボクは木下門下じゃないし、門下の先輩方はそのへんの事情を詳しくご存知だと思いますが、今にして思えば、木下先生もリッププレートと下唇の一体感を追求していらしたんじゃないかと思えます。木下先生あんまりタラコ下唇じゃなかったし、口角も下がってなかったんですが。

 「はじめに波型歌口ありき」でスタートすると、オリジナルのmodel72ボディではチト役不足なので、こんどはさまざまなボディとの組み合わせを試しました。頭部管のほうはレスポンス・響き・コントロール性などの要素から、銀製よりも洋銀製が良い、との結論になりましたから、この波型リッププレート洋銀製頭部管と相性の良いボディ探しです。

 基本、手持ちの楽器の中から、ですから「ありとあらゆる」は無理です。でもまぁやってるうちに「お!?」てのが見つかるもんです。で、その結果… 1950年くらいのBettoney-CADETなんですが、いろいろとナゾです。
 
 洋銀… フランスのマイショーのように、現代の洋銀とはチト成分が異なるのかもしれませんがとにかく銅・ニッケル合金、銀メッキ。「CADET」のネーミングの通り、ベトニーフルートのなかではステューデントモデルの位置付けのようなんですが、トーンホールはソルダードです。楽器自体の作りは決して良くはなく、カップの水平度が揃ってなかったり、ポストも傾いてたり。ポストのほうは製造クオリティではなくて過去のユーザーがブツけた可能性もありますが、この楽器、メナートの金属管のようにポストリブなしでポストが管体に直付けされているので、ポストをブツけて傾かせれば管に痕跡が残るはず。そのようなところはないので元々傾いて立ってたんですんね(笑)。キィスプリングはホワイトゴールドで、キィタッチは上々です。
 1950年頃と言えばヘインズが開発したと言われるドローントーンホールの技術はとっくに普及していただろうし、ローコストに作るならドローンじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうか?(特許とかが絡んでたのかな?)後で手に入れた「CADET」ではない兄貴分の「Bettoney」はドローントーンホール、カーリングなしでした。この「逆転現象」がナゾです。同年代のフランス製にも洋銀管ソルダードはありますが、ステューデントモデルじゃないし。キィスプリング含めなんかミョーなところにコストをかけてる気がします。

 トーンホールの位置、というか管体の設計がナゾです。オリジナルの状態ではたしかに442Hzはキツいんですが、全体のプロポーションをよく観察すると頭部管がほかの楽器よりもあきらかに長く、そのぶん胴部管・足部管が短いのです。胴部管以下は442設計の楽器のプロポーションとほぼ同じなのです。やはり440設計であろうムラマツ波型頭部管を挿すと胴体が短いのでちゃんと(チューニングできるマージンを残して)442が出て、イントネーションも、いっときのヘインズ、ムラマツのような右手部分ダラ下がりのようなクセもありません。前述の兄貴分ベトニーは全長が長く、あきらかに全体が440設計のようなんですが、ほぼ同時代制作に見えるウチのCADETはなぜ胴体が短い?以前吹いていた1912年制作の木管ヘインズは「ヨーロッパ輸出用のハイピッチオールドヘインズ」てことだったんですが、それよりもフツーに442です。

  これはまぁナゾではないかもですが、トーンホールの内径が小さいです。安物のノギスでの測定ですが、Eホール(胴部管下端)で直径13.5mm。最近の楽器だとここは15mmくらいです。たしかテオバルト・ベームのオリジナル設計の寸法がこのくらいとどこかに書いてあった気が… 1912ヘインズ木管のトーンホールもこのくらいの直径でした。


 足部管のC-C#キィの連結もベームの本で見た通りの形状です。ここも1912ヘインズも同じ形状でしたが、たしかこの時代(1950頃)にはもう現在よく見るスタイルに刷新されていたと思います。材質が異なるとは言えこの二本に共通しているのは特に中音域で少し詰まり気味の音質。肯定的にとらえると「甘い音」。このトーンホールサイズから来ているのでは?と睨んでいるのですが。これ以降の楽器はもっと明確な音質、音量の拡大を目指してトーンホールが大きくなっていったんじゃないか、と。

 70年前のボストン、どのような工場で、どのような職人がこのナゾてんこ盛りのフルートを作ったのか、を想像するだけで楽しめます。

 他の楽器とは相当異なるコントロール特性を面白がって吹いているところです。特定の音型のときに響きが揃わない音があったりして替え指必須。それやってて気がついたんですが、先日もMCで「ボクは昔から暗譜が苦手で…」てお話しをしたんですが、暗譜って、単に「楽譜」を覚えているんじゃなくて、それを吹く身体のコントロールもリンクして記憶しているんですね。だから学生時代とかにカリカリさらってそのへんまで記憶されている曲やエチュードなんかはデータを修正する、さらい直す必要がある。こりゃなかなか面白い「自分自身の内面への旅」あるいは「タイムマシン感覚」です。もともと楽器のレスポンス遅れを算入してコントロールする「楽器の演奏」は音響環境が変わるたび、楽器が変わるたびにこの「パラレル時間軸感覚」を日常的に楽しんでるとも思いますが。

 決して扱いやすくはなく、普通のストレート歌口が吹けなくなるんじゃないか?て恐怖感もあり(笑)、仮に同じように「タラコ下唇」に悩んでいるお弟子さんとかがいてもチト勧められないと思いますが… 自分自身は… まぁ自他ともに認めるへそまがりですから。

 それにしても他人からすれば「なんでそうする?」かも。本人的には、還暦も過ぎていろいろな憑き物が落ちてみると、高校生のとき「あの楽器が吹きたい」と決心して初めてフルートを手にしたときに「出したい」と思った音、これはコトバや文章では表現出来ないけど、結局そこなんだと。その音ってその後に知った「名人名演奏」や「超絶技巧曲」的なフルートの世界じゃなかったんだと、今になって改めて思う次第です。

 


 トリルキィの位置高いですよね?この楽器。慣れるまでは意図せずに中指が触ってしまってなんだかな、でしたが、響きを揃えるためにこのトリルキィに限らず替え指を使わなければならない場面が多いので、これは合理性を狙った設計なのかな?とも思います。この時代は現代の楽器よりも替え指がフツーだったんでしょうか?それとも頭部管を変えてデフォルトのバランスを崩したせいなんでしょうか?

 

 

<i>🎵 「KAMEN」の音楽 2022/08/22</i>


 パントマイミスト、清水きよしさんの作品のひとつ、「KAMEN」。能面を製作する技法で創られた面を用いて演じられる作品です。

 40年前に初演されてから再演をかさね、最近では年1回の東京公演のほか、地方公演、また世界各地で公演してきました。

 僕はおそらく(すみませんちゃんと記録していないので…)35年ほど前から毎回、舞台上での演奏者としてお付き合いさせていただいています。曲のほうは、1曲だけグレン・ミラー「茶色の小瓶」のテーマを借用していますが、他はオリジナルの曲… といっても即興の割合が多いので毎回違うんですが… で構成しています。あえて最小のギミックという制約を自ら課して表現するパントマイムの「劇伴」ですから、音が鳴る場面は少なめです。


 これだけの長きに亘って、それも「定期公演」的なペースで同じ作品に関わることはめずらしく、毎回新しいチャレンジを加えてきました。同時に、これも回数を重ねるからこそ出来ることでもありますが、「断捨離」も進んできました。

 これは僕のライフワークでもあるのですが、単音楽器であるフルートで、和声が重要な構成要素である西洋音楽に「ひとりで」どう対峙するか。ピアノやアコーディオンなどの鍵盤の楽器、ギター、ハープならば「ひとりで」和音出せますが、フルートはムリ。かたや東洋の笛は「虚無僧尺八」や「青葉の笛」のように「ふし」だけで成立しますが、長く違う道を歩んできた西洋と東洋の笛は、安易に互いを真似ると「ただのなんちゃって」になってしまいます。

 こだわりたいのは「全編無伴奏」ではなくて「ひとりでできるもん」なので、「KAMEN」の再演を重ねるなかでさまざまな試みをさせていただきました。「重音奏法」や「ボイスミックス奏法」はギミック感マンマンで合いません。そこでシーケンスを併用することにして、今はやりのルーパーエフェクトのようなものから、シーケンサーをダブル、音源モジュールもラック山積み、みたいなのも。

 でもね、「ソロパントマイム」のシンプルな舞台からすると、大掛かりになればなるほど「浮いて」しまう。最初の10年くらいは「膨らませる」時期だったのですが、それからは「断捨離」「シュリンク」の方向性に入りました(笑)。


 この10年くらいは、画像のようにあらかじめ録音したシーケンスを併用する、という範囲に落ち着きました。シーケンスのほうも「バッキング」のレベルまではいかないシンプルなものにとどめておいて、上に乗っけるインプロヴァイズの自由度を上げよう、という方向です。シーケンス再生のほうはMDからPCMレコーダー、CD、ノーパソと進化してきました。新しいもの必ずしも最良ではなく、舞台上での操作性を考えると一長一短なのですが、さすがにイマドキMDとかではメディアが手に入らないし、機材のほうもいつアウトになるか解らない。PCMレコーダーは操作性イマイチです…

 

 35年前って、僕が桐朋中退して、音楽家として生きる道を模索していたころなんですが、そこまでの人生(おおげさですが)を振り返って、自身の「やっぱり単独行動が好き」を理解しはじめたそのころの1988年埼玉博、事務所にブッキングされたアトラクションの仕事で出会ったパントマイミスト清水さんのスタイルは衝撃的でした。「ひとりで、ギミックに依存せずにこれだけの表現が出来るのか」と。もちろんそのためにはその人の人間性や芸術性、不断のトレーニングが重要なわけですが。

 具体的なところで、僕自身の「音楽性」「音質(フルートの)」を考える部分にまで影響しています。

 「KAMEN」中の作品のひとつ、「駝鳥」の冒頭で鳴らす音です。(下はインスパイアされているドビュッシーのシリンクスです)「駝鳥」でフィックスなのはこれだけ。とうてい曲とは言えない「動機」だけで、あとは全部アドリブ。

 「駝鳥」は高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」からインスパイアされた作品で、動物園の檻の中の駝鳥が、ふと生まれ故郷の草原での気配を感じ、そこから故郷のイメージのなかへ帰っていく、という部分なのですが…

 音がその先の展開を導く、という、音楽家冥利に尽きる場面です。台本では彼がアフリカの草原で感じていた「風と匂い」なのですが、それを音で表現するわけですね。なので、ここでは「笛の音」にはこだわっていません。かと言って風の音や動物たち鳥たちの声の模倣でもなく、アフリカの草原のイメージをシンプルに、なおかつ観客のイメージに先入観を与えない抽象的な音で表現したいのです。「明るく」でも「暗く」でもなく。

 譜面にしてしまうとたったこれだけなのですが、「遠くから聴こえてくる音」「記憶のなかで聴こえる音」(台本では「瑠璃色の風」)をどう吹くか。映像ではよく、過去のシーンを表現するのにモノクロ調や、セピアトーンを使いますが、「音」のほうも、遠方から聞こえる音は強弱だけではなく、周波数特性が近くで鳴っている音とは違います。人間はそのへんを経験に基づいて、「音の大小」だけではない情報で「音の遠近・方向」を判断していると思います。逆に救急車のサイレンが、距離感・方向感解りにくいのは、遠達性のためにわざとそういう音にしているからなのですね。

 てことは、救急車の逆をやればいいわけで、ただ「小さい音」だけではなく、音色(倍音特性)のコントロール、ということになります。えーいめんどくさ、ベルリオーズ幻想交響曲」その他のバンダに倣って… とは言ってもそこだけ退場してソデで吹くわけにもいかず、ステージ裏にこの場面専用のスピーカー仕込むか?とも思いますが、「ギミック排除」の方向性が根底にあるパントマイムのステージですから、吹き方でなんとかしましょう。

 

 で、この「駝鳥」冒頭、もっと自分自身のイメージに近づける奏法、を長年に亘って追求することになりました。ある年は、本番の数日前に楽器屋さんの試奏室に一日籠って、頭部管をあれでもない、これでもないと探しまくっていたこともありました(笑)。

 

 「KAMEN」をまだご覧になったことがない方に是非観ていただきたいのと共に、「駝鳥」にどうオトシマエつけたのかを聴きにきてください。もちろんリピートの方も。お待ちしています。

 

清水きよし「KAMEN」
2022年10月28日(金)19:00開演(開場18:30)
座・高円寺2(JR高円寺駅下車・徒歩7分
一般¥4000/18歳以下¥3000

ご予約はカンフェティ予約サイト 0120-240-540(10:00~18:00)
https://www.confetti-web.com/kamen

 

 

 

<i>🎵 固定観念 2023/01/22</i>


階段が鍵盤でなにが悪い?(音は鳴りませんでした)

 ニンゲンともすると固定観念から抜けられない生き物だと思っています。心理的に「囚われやすい」シニアはその傾向強いかも、と。特殊詐欺ってのはこのへんの心理状態をうまく利用してるんだと思いますが・・・


 先週、「ユモレスク」に四苦八苦する生徒さん(シニア)がいたのですね。あれ、Aメロは「ソ、ラソ、ラシ、レミ、レ」って弾くべき(吹くべき)なんですが、どうしても「ソーラ、ソーラ、シーレ、ミーレ」になってしまう。三浦 環のイメージですかね?(たぶん三浦 環聴いたことないと思うんだけど…)

 ボク、「習うより慣れろ」「音符より耳から」をモットーにしているんで、必ず「こういうふうに弾くんですよ」てお手本見せる(聴かせる)ようにするんですが、それでもダメ。本人は「どこが違うのかわからなーい」状態で、ははぁこりゃ聴いてる段階で「ソーラ、ソーラ、シーレ、ミーレ」って脳内変換して聴いてるな、と。そうは弾いてないんだけど。これすなわち固定観念。そう確信したのは、この生徒さん「左手のレ、レ↑レ、↓レソのとこ、弾いてみて」と言っても「どこだかわかりません」。フレーズは小節線のところから始まるもの、と思い込んじゃってるから、1柏めウラウラからのフレーズが認識できないわけですね。


 よく「王様はハダカだ!」って見える目(聴こえる耳)を持とう、て言ってます(笑)。固定観念山盛りのオトナは「王様がハダカで通りを歩くわけがない」と思うわけですが、同じように「楽譜通り(じゃないんだけど…)弾いたし」から抜けられないと自分が弾いた音がちゃんとは聴けないわけですね。その状態だと楽譜も固定観念のひとつになってしまいます…

 現代の五線を使う楽譜って11世紀くらいから(最初は四線だったらしい)みたいだけど、その後の産業革命と同じく、(ヨーロッパの価値観を伝播させるために)さまざまな恩恵をもたらしてくれたと同時に、「便利なモノにはワナがある」の側面も持ち合わせていると思う。音情報の伝達はリアルタイムにそのものを聴いて、多少の口伝で補う、しか出来なかったものが、視覚情報として保存出来るようになったのだから。
でもそれは耳への意識がいくばくか削がれることでもあるよね。

 

 

 

 

<span style="font-size: 150%">🏍原付1種</span>

 先日、あるひと(バイク乗らない)に「昔のヘルメットはベンチレーションなんぞ付いていなくて、アタマ蒸れたんですよ」と話していて、「そうだ俺って30年近くのブランクがあったリターンライダーだったんだ」と思い出しました(笑)。

 ヘルメットのベンチレーションだけではなく、30年も経てばバイクそのもの、周辺器材もいろいろ変わりますよね。でも変わってないことの一つは「原付(一種)30km制限」。
 50ccに関しては変わったこともあります。例えば「二段階右折」。でもこれは50ccの「グレーゾーン」を増大させることになったと思っています。

 10代のころは原付免許しか持っていませんでした。当時の神奈川県は「3ない運動」真っ最中で、大多数の高校生がバイクに乗るには選択肢は50ccしかなかった、と思います。ホントのところは50の原付だって「3ない運動」の対象のうちなんだけど。メーカーのほうもその需要を当て込んで、70年代、各社5速ギヤボックスのスポーツモデルをラインナップしていました。友人も、あいつはRD50、こいつはRG50、ボクはCB50JX-1。軒並み6ps以上のエンジンで、最高速は90km近く出るシロモノです。でもねこれらのバイクで30km/hをキープする忍耐力、高校生は持ってないです。ヤバンな昭和、今は当然原付走行不可になっている横浜新道は、なぜか全線50cc通行可、だったんですね。おこづかい乏しい高校生、電車賃より原付のガソリン代のほうが安くつくんで、CB50でよく藤沢から銀座のヤマハに行ったもんです。

 でもね、横浜新道って当時クルマの制限速度はたしか70km、いくらバイパス然としたつくりで全線片側2車線と言っても、70km、あるいはそれ以上の速度でクルマがバンバン走る横を30kmで走れるもんじゃないです。「走っていいからって言っても、ただその道走らない選択をすればいいだけ」って言われてしまえばまぁその通りなんですが…

 それらが不満ならば他の選択すればいいわけで、リターンした時は普通二輪免許取ってのリターンだったから、50ccを選ぶ理由はなかったんですね。小さいバイクに乗りたくてCD50を持ってたときも、110ccのエンジンに載せ替えて登録変更してたし。今リトルカブがあるのは(クルマの)普通免許しか持たないヨメのバイクだからで、カブ、とてもいいですが自分のバイクとして乗るなら中古の70、90なり今の110、125に乗ればモロモロの面倒はない。でも50ccしか存在しないリトルカブのデザイン、秀逸ですね。

 これも「30年で世の中変わった」ことのひとつだと思うんですが、ヤバンな昭和(笑)とは違って、ほとんどが40km制限の市街地、昔のようにかっ飛ばすクルマはほとんどいなくなりましたね。地方では違うのかも知れませんが。地方の公共交通の便が悪いところで50ccが高校生の重要な通学手段のところ、ってたぶんまだありますよね?禁止しているところもあるみたいですが… でも最近は電動アシスト自転車の進歩がすごい。普通のチャリだとキツいのは長距離と山間部の登り坂だと思うんですが、電アシなら… 

 同じく都市以外で公共交通が期待できない北欧での50ccバイクは45km制限のようです。まぁ免許取得のための試験内容や安全教育とも絡みますが。

 日本での現状ならば、単純に50ccの制限速度を40kmに引き上げれば、もしかしたら二段階右折も見直しが出来て、グレーゾーンのひとつが減るんじゃないかなぁ…

 

 50乗ってると、いまだになんかスッキリしないものをずっと感じて走っています。書いててもスッキリしてないのが「…」の多さに表れる。

 

 


<span style="font-size: 150%">🏍原付2種</span>

 125、いいですね。いまだに社会のはみ出し者的扱いを受ける(ヒガミ根性ですかね?)中型以上のバイクに比べ、公共の駐輪場などでも「125まで」のところはけっこう多く、とは言えウチのは車格は250と同じなんで、50~125のスクーターを想定のスペースじゃデカすぎて近隣に迷惑ですから、中型以上のスペースがあればそちらに停めるようにしてるんですが。

 よく言われるランニングコスト的なこと… 燃費とか、任意保険にファミリーバイク特約を使えるとか、おカネにからむ部分もありますが、なにより性能的な部分が「必要充分」。加速力とか小回りとかですね。加速力は市街地で重要な要素と思います。バイクは乗用車より加速が良くないとキケンです。四輪から素早く離れられないとキケンです。べつに嫌っているわけではなくて(キライですが)、生き方が違う者同士は関わらないのがお互いの為ということですね(笑)。でもべつに際限なく飛ばすんじゃなく、40km/hなり60km/hまでの加速が早い、ってことなんですけどね。

 50ccがキケンなのはここですね。スクーターとかだと、発進加速は乗用車よりいいんですが、あの理不尽な30km/h制限のおかげで、そのあとで「抜かせないと」ならないわけですね。まぁ野蛮だった昭和の時代とは違って、イマドキは40km/h制限の市街地ではクルマもだいたい40km/hプラスアルファで流れていますから、流れにそって走るのは可能ですが。でも突然、自分だけネズミ捕りにかかる、のキケンはあるわけですね。

 市街地の制限速度がほとんど40km/hの現状、50ccの法定速度も40km/hにするべきですね。まぁいまだに四輪の免許を取得すると実技試験もなくオマケでついてくる現状では難しいかとも思いますが・・・

 で、ウチの世田谷通勤車(週イチですが)、XLR125R。数年越しの調整で、なんとかセッティング出しました。楽器でもバイクでも、履歴がわからない中古は本来の状態が解らず、時間をかけて探っていかなければならないことままあります。改造されていないか、手荒な扱いを受けて本来の状態から逸脱していないか。中古楽器もまったく同じ。でもこのバイクは同じ号棟に住む元バイク便ライダーが、「うえのくんボロだけど乘るならあげるよ」「😍」って経緯で手元に来たので、履歴はハッキリしてる。僕よりよほど几帳面なオジさんが新車で買ったワンオーナー車だったのだから。でもオフロードコースでぶん投げられたりもされてたらしいんですが。

 キャブは純正のままのPD52なんですが、これがなかなかデリケートでして… それが元々なのか、過酷な人生の結果ヒネクレた性格になったのかが判断つかないわけですね。

 この手のホンダ単気筒イジりの基礎を教えてくれたのは、コイツの先代世田谷通勤車だったCD50改110なんですが、それに付いてた得体の知れない中華キャブがなかなかセッティング出せなくて、思い切って新品のPC20に変えたら何もせずにあっさりセッティング決まった経験があります。PC20ってある意味おおらかで、神経質にセッティングせずとも快調に走ったんですが、型番違うとはいえ同じケイヒンでしかも純正採用のキャブがこんなに神経質なのって・・・


 やっぱりぶん投げられた過去を恨んでるのかな?

 

 

 

<i>🎵 固定観念 2023/01/22</i>


階段が鍵盤でなにが悪い?(音は鳴りませんでした)

 ニンゲンともすると固定観念から抜けられない生き物だと思っています。心理的に「囚われやすい」シニアはその傾向強いかも、と。特殊詐欺ってのはこのへんの心理状態をうまく利用してるんだと思いますが・・・


 先週、「ユモレスク」に四苦八苦する生徒さん(シニア)がいたのですね。あれ、Aメロは「ソ、ラソ、ラシ、レミ、レ」って弾くべき(吹くべき)なんですが、どうしても「ソーラ、ソーラ、シーレ、ミーレ」になってしまう。三浦 環のイメージですかね?(たぶん三浦 環聴いたことないと思うんだけど…)

 ボク、「習うより慣れろ」「音符より耳から」をモットーにしているんで、必ず「こういうふうに弾くんですよ」てお手本見せる(聴かせる)ようにするんですが、それでもダメ。本人は「どこが違うのかわからなーい」状態で、ははぁこりゃ聴いてる段階で「ソーラ、ソーラ、シーレ、ミーレ」って脳内変換して聴いてるな、と。そうは弾いてないんだけど。これすなわち固定観念。そう確信したのは、この生徒さん「左手のレ、レ↑レ、↓レソのとこ、弾いてみて」と言っても「どこだかわかりません」。フレーズは小節線のところから始まるもの、と思い込んじゃってるから、1柏めウラウラからのフレーズが認識できないわけですね。


 よく「王様はハダカだ!」って見える目(聴こえる耳)を持とう、て言ってます(笑)。固定観念山盛りのオトナは「王様がハダカで通りを歩くわけがない」と思うわけですが、同じように「楽譜通り(じゃないんだけど…)弾いたし」から抜けられないと自分が弾いた音がちゃんとは聴けないわけですね。その状態だと楽譜も固定観念のひとつになってしまいます…

 現代の五線を使う楽譜って11世紀くらいから(最初は四線だったらしい)みたいだけど、その後の産業革命と同じく、(ヨーロッパの価値観を伝播させるために)さまざまな恩恵をもたらしてくれたと同時に、「便利なモノにはワナがある」の側面も持ち合わせていると思う。音情報の伝達はリアルタイムにそのものを聴いて、多少の口伝で補う、しか出来なかったものが、視覚情報として保存出来るようになったのだから。
でもそれは耳への意識がいくばくか削がれることでもあるよね。

 

 

<span style="font-size: 150%">🏍親子</span>


(GSR250S、車格デカいよね。昭和のナナハンと並べても負けていません)

 

 このところ、バイクに目覚める友人が増えてきました。嬉しいです。べつに僕の身近なところだけではなくて世の中にそういう動きがあるみたいですが、それにはコロナ時代で通勤電車を避けたい、があるようですね。でも僕の友人たちはそういうことではないみたい。みんな「通勤」しないからね(笑)。

 大学時代の同級生、ホルン奏者のT君もそのひとり。彼は最初、取得がラクになった「小型AT限定免許」を取ったのだけど、125のスクーターを買うまえに普通二輪免許にグレードアップ(?)して、熟考のうえでスズキGSR250Sを購入しました。


 先日初めてお披露目してもらいました。「2りんかん府中店」で待ち合わせ。昭和のバイク少年はあのころ道端に停めてバイク談義してたものですが(あのころコンビニもまだあまりなかった)時代変わって、こっちもそれなりにトシとって(笑)、他人の目気にしますから。

  2014年式って言ってたから、ウチの1981年式GS750Gとはちょうど親子ほどの年齢差。店のまわり一周運転させてもらいましたが、いやあスムースな現代のバイク(あたりまえですね)。ヨシムラのマフラー付いてて音もグー。その扱いやすさに驚きましたが、自分のGSに乗り替えての帰り道、ウチのは齢41歳にしてよくフツーに走るよなあ、と改めて感心しました。そして「オレやっぱりこっちがいいや」とも。


 奥のDNはわりあい新しいものですが、手前のがこのところもっぱら吹いているムラマツ・スタンダード。ボディは1970年代終わりころのもの、H足は同じころのミヤザワ、ヘッドは1950年代のムラマツ波型。たまに現代のものも試しますがこちらも同じく、オレこっちのほうがいいや、と。

 

 

 

<i>🎵 The 生 2022/06/07</i>

 もう35年ものお付き合いになる、日本を代表するパントマイミスト、清水きよしさんの舞台音楽を務めるときのセットアップ2022バージョン。2021バージョンとの違いは、シーケンスを入れておくデバイスがノートパソコンからiPhone(機種変更で退役した6s)になりました。

 なぜかというと、「見た目」をコンパクト化したかったから。今回はピアニカを使う演目が含まれていたのでテーブル出してますが、そうでなければ客席から見える音響機材は一式を仕込んだ「フーテンの寅さんトランク」と、マイク・iPhone用の2本のスタンドだけで済むから。
 もうひとつは、ノーパソだと操作している手元は客席からはよく見えないですが、スタンドに立てたiPhoneだと丸見えなんで、あえて「そこで操作している」を見せるためでもあります。

 これは昨年のノーパソ時代なのでPCを載せたテーブルが写っていますが、これがiPhone+スタンドに置き換わったわけですね。このトランクってのはアンプその他を生々しく見せたくないからで、足元のペダルやケーブルなどのいかんともしがたいモノが多少残りますが、「電気」や「スピーカー」的なものは極力見せないように、とのこだわりなんです。「見せたいもの」と「見せたくないもの」の仕分けですね。

 そもそも大した音圧では鳴らさないので、マイク1本立てておけばあとは会場側の音響システムに送ればいいんでね?となりますが、ここにもう一つの大きなこだわり、「バーチャル拒否」があるのですね。

 ホールでもライブハウスでも、映画館でも、スピーカーは両ソデにありますよね。映画館のマルチチャンネルでセンタースピーカーがあったとしてもプロセニアムに仕込んである。ド真ん中にあったらジャマだからね。つまりステレオにしてもマルチchにしても、スピーカーのないところに音像が定位するようになってるわけですね。

 あれキライなの。「バーチャル」っていうと聞こえいいけど、「ウソ」だろ、って。ヘンクツですねーイマドキ誰もそんなこと言いませんよね(笑)。

 「生の」舞台、「生の」音楽。「生」の定義ってなんだ?音楽の場合、クラシック系、無農薬農法信奉系のひとたちは「マイク通したら生音じゃないだろ」って言いかねませんが、コンサートじゃないからね。多目的ホールが会場だったとしても、照明吊りますから反響板はゼンブとばしてます。日頃腹筋鍛えてますから音量には自信ありますが、だからと言ってノーマイク(ノーリバーブ)でバリバリ吹いたらそれはガサツなだけ。かといって会場の音響システムに依存してバーチャルな音になるのも嫌なわけです。

 そこまでワガママ言うんだったらそう、ゼンブ自分でやるしかない。トランクに仕込んであるスピーカーからシーケンスとフルートをミックスしたものが点音源的に鳴るようにセットアップするわけです。「会場まんべんなく」なんぞには鳴らさない。「そこで鳴ってるように」聴こえるべく。そして、フィックスの「曲」部分もありますが8割方は即興の、その日その時だけのプレイ。2ステージあったら吹く音は違います。それが「生」だと思うからです。

 まぁお客様にはそのへんの苦労を説明する必要もないし、ひょっとしたら全くムダなこだわりか?とも思うんですが、先日の舞台で「そこで鳴ってる感が素敵でした」と言ってくださった方がいたので、無駄じゃなかったんだ、と(涙)。「見せる手元」のほうも、打ち上げでスタッフのひとりのオジさんが「あれはどういう仕組みなんですか?」とシツコク(笑)食い下がってきたから、してやったり、と。そこで鳴ってる、そこに生きてる、それが俺の考える「生」。

 

 

 

🎵 軽さは正義 🎵  2022/05/27


 たまたまなんですが手元にヤマハの、リングキィのローエンドモデル、281Sと後継281SⅡの両方があるんですね。以前に吹き比べて「なんかだいぶ吹き応えが違うなあ」とは思っていたんですが、製造年代も違うんだしそりゃモデルチェンジするくらいだから何か(おそらくコストダウンのために)変えたんだろ、程度に思っていたのですが…

 今回よーく観察してみました。そしたら思っていた以上に細部が変わったようです。
 ぱっと見た目は同じなんですよ。でも画像のように、ポストが立っている位置や、当然としてポストリブの長さも違います。上が281SⅡ、下が旧い281Sです。画像ないですが、ブリチアルディキィはSⅡではパイプが短くなってポストが太くなっています。ポストリブは主管末端などでも少々異なります。SⅡのほうがポストリブは大きい傾向です。


 ポスト自体の形状も違います。281Sは単純なこけし型ですが、SⅡのほうはスソが広がったこけしです。強度高そうですね。ちなみにYFL-31も手元にあるんですが、こちらは古いほうの281Sと同じ形状。2ケタ番台のモデルは3ケタより古いんで、つまりスソ広がり型のほうが新しい(改良された)型ということですね。

 で、肝心の「軽さは正義」なんですが、281Sが394g、281SⅡが403gで9g「も」違います。たかが9gとおっしゃるかもしれませんが、フルートという楽器、10gも違うと持った感覚は明らかに違います。重心がどこにあるかでも変わりますが。ははぁ吹き比べて感じた違いはかなりここから来てるな、と。念のため頭部管をスワップしてみても同じ印象ですから。いちおうバランス調整はきちんとしてなるべくコンディションを近づけておいて、です。

 楽器に取り付ける、あるいはパーツを交換するアイテムがあれこれ出てますが、そしてそれらも真鍮より銀、銀より金、18金より24金、はたまた水晶(?)と、楽器本体と同じような貴金属崇拝傾向ですが、確かにクラウンに鉄のナット(笑)取り付けてみると音のさまざまな部分が変わります。この場合は鉄ですから貴金属効果(?)ではなく、質量がプラスされたことでの変化ですよね… でも全く「貴金属効果」がないわけじゃないとは思います。同じメーカーのクラウン(ヘッドキャップ)で重量も同じ(キッチンスケールの精度ですが)もの、金メッキと銀メッキのものを取り換えて吹き比べると確かに違うんです。昔、新興宗教の勧誘デモンストレーションで「あなたは暗示にかからないのでダメです」とお墨付き(笑)をもらったことがあるうえののことですから、「プラセボ効果」ではないと思う。感じる違いの90%以上は質量の違いから来ると思いますが、ごくわずか金属自体の効果もあるのかな。たかだかクラウンのメッキでも違いがあるんだから。


 ボクのジャンルだとマイク使うこと多いですが、「コンタクトマイク」(クリップで楽器に取り付ける)だとまぁ楽器が鳴らなくなること。これはクリップが振動を抑えるせいと、トータルでの楽器の質量が増えるからだと思います。

 281SとSⅡどちらがいいか、といえば、個人的にはオリジナルの281Sがだんぜん好みです。ローエンドモデルとは思えないパフォーマンスです。では281SⅡはなぜこうなってしまったのか?

 個人的には(笑)、モノゴトの「真意」は当事者でなければゼッタイにわからない、と思います。察すればいろいろ考えられますが。ヤマハローエンドは、そりゃフルートマニアは造りが粗いの、タンポ蒸してつけてるの(ホンマかいな)と言いますが、この楽器をあの価格で造るには死ぬほどのコストダウンに取組まなければならないはず。やっぱり推察でしかありませんが、最初の、281デビューの時はそれでもそこそこ理想主義に燃えてたんじゃないか、と。コスト上オール洋銀(しか使えない)、パーツも極力他機種と共用、でも逆に洋銀管・インラインストレートを最大限に活かして、出来る範囲のことはゼンブやって軽く造ることでそれらが持つメリットを最大限生かそうとしたんじゃないかな?洋銀製ステューデントモデルでも、400gを切っているものって珍しいですから。まぁすべて単なる偶然の結果、て可能性もありますが。

 そこへレスポンス速めの(SⅡやそのあとの211SⅡなどと比べても)頭部管つけてます。これも一歩間違うと「音出しやすいけど軽薄」と言われかねないんですが、「軽薄」の部分は吹き手がカヴァー出来る設計になっている(と思う)。でもSⅡへのモデルチェンジでは、ポスト・リブ形状の変更からも想像できるように「耐久性アップのためには重量増やむなし」となって「だったら軽やかさよりもしっとり系に」に振られたんじゃないかと思います。

 小中学生だと、「楽器落下事故」はどうしても避けられないことでもあり、多少ブツけても落としても曲がらないポストにしたかったんじゃないか?スクールバンドでのヤマハ200番台の耐久性は圧倒的なものがありますから。で、そこからモノゴトが決まっていって重量は増え、そのことによって従来の「軽やかさ」を手放さざるを得ないのならば方針転換して売れセンでもある「高級機種を思わせる音づくりに」と。ストレートリングキィ本来の目的は置いといて「なんかリングキィのほうがカッコよくみえるし」層を狙おうと。かくして281SⅡはただの穴が開いた211になった。212はまだ吹いたことないですが、211SⅡも「この価格でこんなにしっとりした音なんだ」の印象でしたから、200番台はみんなそちら方向に振ったのでしょうか。途中からインドネシア工場生産になっているそうだから、「造りやすさ」からの要求もあるのかな。

 で、コイツ(古い281S)にとっては「軽さは正義」なのだと理解しましたから、いつも自分の手が小さいことを言い訳に、本当のところは他と同じがイヤだから、の「自分のものマーキング」のためにCキィに張り付けているコインも、いつもは手持ちの1バーツとかなんですが、以前使っていた、たぶん世界最軽量のメキシコのコインを改めて手に入れて貼り付けました。


 大企業ヤマハ、工房系フルートみたいに一人の製作者がすべてを決められるわけはなく、大勢の意見をまとめて製品が生み出されるのだと思いますが、281SとSⅡでは若干のコンセプトチェンジはあったようです。そのへんを勝手に、無責任に想像してみるのが楽しかったりして。

 

 

🎵 狂気 🎵  2022/02/05



 手前は40年以上前のムラマツ・スタンダード。ですが、頭部管は10年ほど前に入手した「波型」のリッププレートのものに替えてあります。銘が無いのではっきりとはわかりませんがおそらくムラマツ製の925銀だと思います。

 波型の歌口って、50年前くらいには日本でそこそこ流行っていたようですね。フルートクラブ版の「アルテフルート教則本」にも図があるし、大学受験前にレッスンしていただいた木下芳丸先生がこのタイプの頭部管を付けた楽器を吹いていらっしゃいました。ムラマツの古いmodel72とか112にはデフォルトでこのタイプの頭部管が付いていたようです。

 model72や112の波型頭部管は洋銀製です。研究用(笑)に1本ずつ持っていますが、形状は銀製と同じ。タネフルートにも波型があり、もう少し後になってサンキョウがハイウエーブという頭部管をラインナップしていましたが、ムラマツの「ムラマツタイプ」はそれらよりもっと露骨に(笑)波打ってプレート中央が凹んでいます。

 波型歌口はその後廃れました。「音量は出るが微妙な音色変化がつけにくい」「アンブシュアが固定され気味で発音が安定はするがppが吹きにくい」と言われていますが、まぁそんなところだと思います。「低音が出しやすい」と書かれていることもありますが、ボク的には現代の楽器のように全音域同じ(ような)アンブシュアで吹けるわけではない、古典的な歌口だと思います。要は下唇が厚めの(ボクもそうですが)ニンゲンにとってはストレートなリッププレートのものよりも下唇の使い方の自由度が広がる、というところでしょうか。それも一長一短ですが…


 じゃあなぜ好き好んでこれを吹くのか?それは一般的なストレートの歌口では出ない「野太い音」が出せるからなのです。言い換えれば下品な音「も」出せる、なんだけど。下品な音「も」出せるフルートなんてそうそうないから。波型のリッププレートの意味は、「緩いアンブシュアでも下唇が安定する」は副次的な産物で、活かすべきは「エッジの長さ」なんじゃないかと思います。マウスホール向こう側のエッジがサイドの盛り上がりに連続しているわけですから実効エッジ長が長い。そしてそれが「野太さ」(倍音に対して基音成分の多さ)に繋がっているんじゃないかと。楽器造りに関しての専門的なことはわかりませんが、「音色の変化がつけにくい」もここから来るんじゃないでしょうか?

 フルート音の倍音成分って、息ビームの両端がマウスホールの左右を「掠って」出ている分があるんじゃないかと思います。息ビームって噴流なわけだから、アパチュアから放出されたあとは拡散しますよね?アパチュアからエッジまではたいした距離じゃないですが、多少なりとも拡散するならばストレートなエッジ(スクエアなマウスホール)だと、エッジ中央部と左右では実効ビーム長が違ってくる気がします。エッジの中央部分とは異なるビーム長、異なる入射角の息ビーム拡散部分が、「音色の豊かさ」を作っているんじゃないか?そう考えると傾向として、スクエアなホールのものは倍音が豊かな派手めな音、丸いホールのものは柔らかく穏やかな音、と言われるのも納得いきます。「ムラマツ波型」ではいわばそのビームが掠めるマウスホール端が「ない」わけですから、そのまま吹くとたしかに倍音成分少ない、音色変化付けにくい、になるわけで、ボク「口内子音」って言ってるんですが、特に低域では口内で発生させる擦過音を補う必要があるんじゃないかと思っています。

 個人的にはジャズフルートてのは「ミスマッチの美」、あるいは「マゾヒスティックな快感」を楽しむもんだと思います。どのようなジャンルの音楽でもさまざまな表情があり表現がありますが、ぶっちゃけフルートでジャズ、やりやすいか?テナー(サックス)でゴリゴリ吹いてたほうがよっぽど苦労が少ない、と思うのはボクだけ?曲はボサノバだけじゃないからね。もちろんどのような場合でもフルートの特性を活かした「軽快さ」「清澄さ」は生きるけど、ジャズスピリッツのメインじゃない。

 たぶん… 歴史的にはエリントン楽団あたりからの伝統… チークタイムのときにサックスセクション休ませとくのはギャラもったいないんで、静かめなフルートでも持ち替えで吹かせっか、ていう、おカネ払う側の都合から始まったと思うんだけど、それは現代まで受け継がれていて、フルバンのサックスのひとは持ち替えでフルート吹きますね。そうすると「フルートとしての理想の音」よりも「ジャズとしての音楽性」のほうが先に立つから(フレージングとか、タンギングとかですね)それらがジャズフルートとして成立するために重要な役割を果たしていると思えます。ゴリゴリ行きたいときはサックスに持ち替えればいいわけだし。


 クラシックから入って、サックス吹かないボクとしては、「自分にとってのジャズフルートの音」を追求することを助けてくれるのがこの、「野太い音も出せる」波型歌口なんです。

 ちなみに画像のむこうはムラマツのDN。14金の頭部管はデフォルトで、ほかの部分もボクの楽器にはめずらしくイジっていません(笑)。それは、たまにコイツ(彼女、ですね。女性名詞だから)を引っ張り出して吹くことで、自分の吹き方があまりに(何かに)特化していないか、を確かめるために、なんです。ベンチマークですね。こっちもちゃんと吹けることを確かめて、安心してまた「狂気の世界」に戻るわけです(笑)。


 ベビーオイルは何に使うかって?ハーモニカのメンテに使います(笑)。